マリア・カラス
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マリア・カラス(Maria Callas 1923年12月2日-1977年9月16日)は、ソプラノ歌手である。ニューヨークで生まれパリで没し、20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われた。
特にルチア(ランメルモールのルチア)、ノルマ、ヴィオレッタ(椿姫)、トスカなどの歌唱は、技術もさることながら役の内面に深く踏み込んだ表現で極だっており、多くの聴衆を魅了するとともにその後の歌手にも強い影響を及ぼした。
ギリシャ系移民の子として生まれた彼女の本名は Maria Anna Sofia Cecilia Kalogeropoulos といった。1936年からギリシャに渡ってアテネ音楽院でエルビーラ・デ・ヒダルゴに学び、1938年アテナイ王立歌劇場で『カヴァレリア・ルスティカーナ』(マスカーニ作曲)のサントゥッツァを歌ってデビューした。1947年にはヴェローナ音楽祭で『ジョコンダ』の主役を歌い、1950年にはミラノ・スカラ座に『アイーダ』を、1956年にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場に『ノルマ』を歌ってデビューし、それぞれセンセーショナルな成功を収めた。
デビュー当初はヴァーグナーも歌ったが(イタリア語でトリスタンとイゾルデのイソルデ、同じくイタリア語でパルジファルのクンドリを歌った録音が残っている)、後にイタリア・オペラの広いレパートリーで歌うようになった。ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティらのベルカントオペラから、ヴェルディ、プッチーニ、ビゼー(『カルメン』の主役)など、リリコ・スピントやドラマティコの声質むけの役柄でも並外れて優れた歌唱を行った。カラスの傑出した点は、ベルカントオペラに見られる様式的な登場人物に抜きん出た心理描写力と演技力で血肉を与え、作品の真価を多くの聴衆に知らしめたことにある。特に、『ランメルモールのルチア』『ノルマ』『メディア』などは彼女によって本格的な復活上演が行われるようになったといっても良いくらいである。
各地のオペラハウスに出演する一方、辣腕音楽プロデューサーのウォルター・レッグによりEMIレーベルに次々とオペラ全曲を録音し、ジョン・カルショウのプロデュースによるレナータ・テバルディを主役にした英デッカのレコード録音と人気を二分した。
しかし声帯に負担をかける独特の歌唱法が喉を酷使し、1960年前後から彼女の歌手としての最大の武器のひとつであった高音が出なくなり、公演のキャンセルも相次ぎ、1965年の『トスカ』の舞台を最後に事実上の引退状態になった。何度か舞台復帰の噂もたったが、映画出演(『王女メディア』)、オペラ演出(『シチリアの夕べの祈り』)、EMIへの数曲の録音、ジュリアード音楽院マスタークラスの講師など散発的な活動が続き、本格的な復活が果たせなかったのは、オペラファンにとっては残念なことであった。1974年にテノールのジュゼッペ・ディ・ステファノと初来日したが、ピアノ伴奏によるリサイタルであり、オペラの舞台に立ったわけではない。この来日は前年から始まっていたワールドツアーの最後を飾るもので、福岡、大阪、東京と続き、北海道の札幌厚生年金会館でのリサイタルが、彼女の生涯における最後の公式な舞台となった。
彼女の最初の夫はイタリアの実業家メネギーニであったが後に離婚、ギリシャの海運王オナシスとの愛人関係もしばらく続いていたが、ケネディ大統領未亡人ジャッキーとオナシスの結婚を機にオナシスと別れ、以後独身を通した。
[編集] 主なレパートリー
- ドニゼッティ:『ランメルモールのルチア』、『アンナ・ボレーナ』
- ベッリーニ:『ノルマ』、『清教徒』、『夢遊病の女』、『海賊』
- ヴェルディ:『マクベス』、『椿姫』、『トロヴァトーレ』、『仮面舞踏会』『運命の力』、『アイーダ』
- プッチーニ:『トスカ』、『トゥーランドット』
- ビゼー:『カルメン』
- ポンキエッリ:『ジョコンダ』
- ケルビーニ:『メディア』
- マスカーニ:『カヴァレリア・ルスティカーナ』
- レオンカヴァッロ:『道化師』