ヨス・フェルスタッペン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
F1での経歴 | |
国籍 | オランダ |
活動年数 | 1994 - 1998 , 2000 - 2001 , 2003 |
所属チーム | ベネトン, シムテック アロウズ, ティレル, スチュワート, ミナルディ |
出走回数 | 107 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 17 |
表彰台(3位以内)回数 | 2 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1994年ブラジルGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 2003年日本GP |
ヨス・フェルスタッペン(Jos Verstappen, 1972年3月4日 - )は、オランダ出身のレーシングドライバーで、元F1ドライバー。当初はヨス・バースタッペンと表記されることもあった。
[編集] 経歴
1993年に参戦したドイツF3選手権では1年目でチャンピオンとなりF1チームから注目を浴びてフットワークでのテストではレギュラードライバーよりも速いタイムを出した。 F3世界一決定戦とも言えるマカオGPには参加せずにスポンサーの意向でマクラーレンのテストを行うなど、速さだけではなく資金面でも魅力的であり各チームとの争奪戦となった。 1994年もベネトンのテストドライバー契約を交わしていたが、シーズン前のテスト中に正ドライバーのJ.J.レートが負傷したために開幕戦ブラジルGPで急遽デビュー。その後もミハエル・シューマッハの出場停止中の代役なども含め、この年10レースに出場、2度の3位表彰台を獲得する。しかし、ドイツGPではこの年から導入された給油中に出火、炎に包まれるというショッキングなシーンもあった。
翌1995年には正ドライバーの地位を求め、シムテックに移籍。資金を持込んだだけではなく、前年までベネトンが使用していたエンジンとギアボックス(電装系も含め)を提供した。しかし、この頃のシムテックは前年のローランド・ラッツェンバーガー、アンドレア・モンテルミニの相次ぐクラッシュなどで著しい財政難にあり、たった5戦でF1から撤退してしまった為、フェルスタッペンもシートを失うこととなる。
この後、アロウズ・ティレル・スチュワートと中堅以下のチームを渡り歩くが、目立った成績を残すことなく、1998年オフにはシートを失ってしまう。
1999年にはシャシーを含めた全てを自社開発する「オールホンダ」でのF1復帰を発表したホンダのテストドライバーに迎えられるが、最終的にホンダがB・A・Rへのエンジン供給の方を選択し「オールホンダ」体制をあきらめたことから再びシートを失う。
再び注目を浴びたのが、1年の休養をはさんだ2000年。アロウズのエースドライバーに迎えられたのだが、この頃のエグバル・ハミディがデザインを手がけたアロウズのシャシーはストレートで驚異的なトップスピードを見せ、トップチームに競り負けない強さを見せる。この頃から日本では『直線番長』(のちに、単に『番長』)、ヨーロッパでは"Jos the Boss"のニックネームをつけられる。
2001年ブラジルGPでは周回遅れにも関わらずトップ走行中のファン・パブロ・モントーヤに追突、ともにリタイア。通常ならありえない事故を起こした事への憤慨と、このレースに初優勝がかかっていたモントーヤへの同情から、日本のインターネット・コミュニティでは、フェルスタッペンのファーストネームにひっかけた『逝ってヨス』なる罵声が浴びせられた。
2003年にミナルディから参戦。フランスGPの予選1回目では、暫定ポールポジションを獲得したこともあった。
2005年からスタートしたA1グランプリへオランダチームとして参戦。