他戸親王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
他戸親王(おさべしんのう、天平宝字5年(761年)?-宝亀6年4月27日(775年6月3日)は、奈良時代末期の皇族・皇太子。父は光仁天皇(当時は白壁王)、母は井上内親王。聖武天皇の外孫にあたる。姉に酒人内親王。
生年については『水鏡』・『一代要記』の年齢記事によれば天平宝字5年となるが、この場合母親の井上内親王が45歳の時の子となってしまい年齢が不自然であるとして、正しい生年を天平勝宝3年(751年)とする歴史学者が多い。だが、称徳天皇亡き後に最も皇位に近い立場にいた筈の他戸親王の『続日本紀』における初出が、父・光仁天皇の即位後であること(つまり称徳朝における叙任記録が存在しない)や姉の酒人内親王も井上内親王が37歳の時の子であることを考えた場合、当時でも稀な高齢出産があった可能性も排除出来ない。このため、本項では天平宝字5年説で解説する。
親王の父・白壁王は天智天皇の孫である。だが、既に皇位が天武天皇系に移されて久しく、王自身も皇族の長老ゆえに大納言の高位に列しているだけの凡庸な人物と見られていた。だが、称徳天皇の時代、天武系皇族は皇位継承を巡る内紛から殆どが粛清されており、めぼしい人物がいなかった。このような状況下で政府首班であった左大臣藤原永手(藤原北家)が目に付けたのが他戸王(当時は親王ではない)であった。天智天皇の曾孫で母親も聖武天皇(天武天皇の嫡流)の内親王である他戸王を皇位継承の隠し玉として保護したのである。
やがて称徳天皇が死ぬと永手は他戸王の父である白壁王を皇位継承者として擁立する。その際、藤原氏は反対派に対する切り札として利用したのが他戸王であった。つまり、女系とはいえ天武天皇の血を引く最後の皇族である他戸王を皇位につかせるための中継ぎとして父親の白壁王に一時皇位を継承させるという大義名分を持ち出したのである。かくして宝亀元年(770年)に白壁王は即位して光仁天皇となったのである。
ところが、藤原氏の内部には他戸親王の立太子に反対する者もいた。永手とともに白壁王擁立の同志であった藤原式家の藤原良継・百川兄弟は光仁天皇の庶長子で有能であるといわれていた大学頭山部親王(後に中務卿、後の桓武天皇)の立太子を要求したのである。しかし、いわゆる「原則論者」であった(かつて、孝謙天皇の後継者問題でも血縁関係を重視して聖武天皇の娘婿である塩焼王を推薦している)永手は他戸親王以外の立太子にはあくまで反対した。翌宝亀2年1月23日に他戸親王は光仁天皇の皇太子として立てられた。ところが、それから1ヵ月も経たない2月21日に左大臣藤原永手が急死して、式家の藤原良継が内臣として政権を握るようになったことで親王の運命は一変する事になる。
宝亀3年(772年)、突如母親である皇后井上内親王が夫である天皇を呪ったという大逆容疑で皇后を廃されて、5月27日にはこれに連座する形で他戸親王が皇太子を廃される。更に翌宝亀4年10月19日には井上内親王が能登内親王(光仁天皇の皇女で他戸親王の異母姉)を呪い殺したという容疑を受けて、他戸親王は母とともに庶人とされて、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)没官の邸に幽閉され、やがて宝亀6年(775年)4月27日、幽閉先で母とともに急死する。一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力である。
かくして、山部親王が皇太子に立てられてやがて桓武天皇として即位する事になるものの、他戸親王の死後には天変地異が相次ぎ、更に宝亀10年(779年)には周防国で親王の偽者が現れるなど、「他戸親王の怨霊」が光仁・桓武両朝を悩ませる事になっていくのである。
カテゴリ: 飛鳥・奈良時代の皇族 | 761年生 | 775年没 | 日本の歴史関連のスタブ項目 | 人名関連のスタブ項目