北条実時
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北条 実時(ほうじょう さねとき、1224年(元仁元年) - 1276年11月30日(建治2年10月23日))は、鎌倉時代の武将である。北条氏金沢流の実質初代で、金沢実時(かねざわ さねとき)とも。父は北条実泰、母は天野政景の娘。妻は叔父にあたる北条政村の娘ほか側室。子に北条顕時、北条実政ほか。
[編集] 略歴
天福元年(1233年)、3代執権北条泰時を烏帽子親に元服。翌1234年(文暦元年)に父から小侍所別当を移譲される。4代執権北条経時、5代北条時頼政権における側近として引付衆を努め、1253年(建長5年)には評定衆を務める。1264年(文永元年)には安達泰盛とともに越訴奉行となり幕政に関わり、8代執権の北条時宗を補佐する。
文永の役の翌1275年(建治元年)には政務を引退し、六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区)に住み、蔵書を集めて金沢文庫を創設する。1276年に死去、享年53。
文化人としても知られ、明経道の清原教隆に師事して法制や漢籍など学問を学び、舅の政村からは和歌など王朝文化を学ぶ。源光行・親行父子が校訂した河内本『源氏物語』の注釈書を編纂する。また、実子実政にあてた訓戒状も知られる。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1234年(文暦元)6月30日、小侍所別当と就る。
- 1238年(暦仁元)3月18日、掃部助に任官。また、宣陽院蔵人にも補される。
- 1252年(建長4)4月30日、幕府の引付衆と就る。
- 1253年(建長5)2月、評定衆に異動。
- 1255年(建長7)12月13日、従五位下に叙し、越後守に転任。
- 1258年(正嘉2)、引付頭人を兼帯。
- 1265年(文永2)6月27日、従五位上に昇叙。越後守如元。
- 1266年(文永3)、引付頭人を退任。
- 1269年(文永6)、引付頭人を再び兼帯。
- 1275年(建治元)5月、病により相模国六浦に籠居。
- 1276年(建治2)10月23日、卒去。享年53 法名:称名寺正慧 墓所:神奈川県横浜市金沢区の称名寺