地獄のオルフェ (オペレッタ)
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『地獄のオルフェ』(Orpheé aux Enfers)は、1858年10月20日にブッフ・パリジャン座で初演された、ジャック・オッフェンバック作曲による全二幕四場のオペレッタ(またはオペラ・ブッファ)である。初演から1859年6月まで連続228回公演を記録した大ヒット作にしてオッフェンバックの代表作である。日本では、1914年に帝劇で初演されて以来『天国と地獄』の名で知られる。特に劇中登場する『地獄のギャロップ』は、運動会のBGMやカステラの文明堂のCMにも使用され、クラシック音楽の中でも非常に有名な曲の一つである。
目次 |
[編集] ブッフ・パリジャン座の結成
1855年7月5日、オッフェンバックは当時パリのシャンゼリゼ通りのマリニー地区にあった見世物小屋ラカーズを買い取り、ブッフ・パリジャン座と名を変え、主に一幕物のコメディーを上演する劇場としてオープンさせた。この劇場のオープンこそオッフェンバックにとってその後の成功の足がかりとなる。この劇場のオープンの日にさっそくヒット作が生まれる。それは『二人の盲人』である。この作品は二人の盲人を装った乞食が主役の滑稽な物語で、特に劇中二人が歌うボレロが人気を呼んだ。この作品の評判はチュイルリー宮殿にまで影響を及ぼし、オッフェンバックは皇帝ナポレオン3世との謁見を実現させただけでなく、後にパトロンの一人となる皇帝の異父弟モルニ公とも知己を得ることとなった。ブッフ・パリジャン座は『二人の盲人』の成功と同年に行なわれたパリ万博の影響もあって大勢の観客がやってきたが、劇場自体が小さく手狭だったため移転をすることになった。同年12月29日にオッフェンバックはマリニー地区にあった劇場をモンシグニー通りに移す。以後現代に至るまで、ブッフ・パリジャン座はこの場所に残ることとなる。
[編集] 劇場の経営規則との戦い
こうして順調に劇場経営のスタートを切ったかに見えたオッフェンバックだったが、彼には宿命とも言える問題がこの頃から発生する。それは金銭問題である。彼の目立ちたがり屋で派手好きな性格が金に糸目をつけずに舞台を作るという経営方針を生んでいた。しかしこの方法だとブッフ・パリジャン座のような出来て間もない新しい劇場では慢性的な赤字を呼ぶことなり、これまでのような一幕物だけでは限界が来ていた。そこでオッフェンバックは、もっと手っ取り早く稼ぐ方法として一幕以上の規模の大きな形態での作品の上演を目指そうとした。しかし、当時、劇場や出版物の検閲を担当していたフランス内務省の劇場経営規則が障害となる。1855年6月4日に決められたこの規則によると、ブッフ・パリジャン座のレパートリーは、パントマイム(登場人物5人)、一場からなる舞台(セリフを言う俳優は4~5人のみ)、ダンスショー(ダンサーは6人まで)と限定されていた。また内務省の許可なくコーラスを入れることは禁じられていた。 当初この規則に従ったオッフェンバックだったが、1857年2月12日初演の一幕物『クロックフェール、最後の遍歴騎士』という作品で、この規則を逆手に取る。それは作品の登場人物の一人を「舌を切り取られて口がきけない騎士」という設定にしてセリフの変わりにプラカードを持たせたのである。セリフを言わなければ4~5人までにカウントされないので、6人の人物が舞台に登場することができたのである。さらにオッフェンバックは親しくしていたモルニ公の助力を受けてこの規則の撤廃を働きかけ、ついに登場人物数、コーラスともに制限無しという条件を獲得することに成功した。1858年3月3日初演の『市場の女達』で大人数のコーラスを初めて導入した。
[編集] 『地獄のオルフェ』誕生
劇場規則から自由になったオッフェンバックだったが、劇場の赤字が解消されることはなかった。赤字解消にはヒット作が益々必要となっていった。そこで彼は、当時リヴァイヴァル・ブームが起きていたグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』(ギリシャ神話のオルフェウスの悲劇)のパロディーをテーマに初めての長編作品を作曲することにした。エクトル・クレミューとリュドヴィック・アレヴィの台本は、グルックの作品に第二帝政期のフランス社会が抱えていた偽善性や矛盾の風刺をすることで当時の世相を取り入れ、本来は死んだ妻を愛するあまり地獄に赴くという感動的な夫婦の物語をお互いに愛人を作り、決して愛し合っているわけではないのに体面だけを気にして仕方がなく妻を取り戻しにいくという偽善に満ちた夫婦の滑稽さを風刺した作品を生み出した。 こうして作品は完成し、1858年10月20日初演を迎え大成功を収めた。翌10月21日付けの『フィガロ』紙はこの成功を以下のように評した。
「前代未聞 素晴らしい 見事としか言いようがない あかぬけていて 聴衆を魅了してやまず 気が利いていて とにかく楽しい 大成功だ 非のうちどころない 心地よく響くメロディ」
[編集] オルフェ論争
こうして成功をおさめたオッフェンバックだったが、作家フローベールや批評家ジュール・ジャナンのように非難する人々もいた。彼らは、特に劇中の登場人物「世論」の大仰な物言いがいわゆる知識人への当てこすりであると受け止め、
[編集] 外部リンク
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