小坂徳三郎
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小坂 徳三郎(こさか とくさぶろう、男性、大正5年(1916年)1月20日 - 平成8年(1996年)2月23日)は、昭和期の実業家、政治家。信越化学工業社長・会長、信濃毎日新聞社長、衆議院議員、運輸大臣。
[編集] 略歴
大正5年(1916年)1月20日、長野県長野市に生まれる。昭和14年(1939年)東京帝国大学経済学部を卒業後、朝日新聞社に入社する。10年間、経済畑で新聞記者として活動した後、戦後の昭和24年(1949年)に信州に帰り、小坂財閥に復帰する。父の順造が創設した信州化学工業に入社し、昭和26年(1951年)同社副社長、昭和31年(1956年)に社長に就任し16年間務める。この間、経済界・財界では若手経済人のホープとして評価され、経団連評議員、経済同友会幹事などの役職について財界活動も始める。また、外務省参与の資格で、対米並びに対欧州経済使節団に参加。外務省顧問の資格で対東欧経済使節団長として国際経済関係でも活躍する。昭和47年(1972年)に辞任後前年に死去した叔父武雄の後を継ぎ信濃毎日新聞の社長に就任したが昭和48年(1973年)に国務大臣として第二次田中改造内閣に入閣したためわずか1年で辞任している。
財界活動をしていた頃から、いつかは政界に打って出るという意欲を持ち、昭和44年(1969年)の第32回衆議院議員総選挙に東京3区(当時)から自民党公認で立候補し、財界の支援もあり当選する。以後当選7回。いずれは総理総裁として桂冠すると自他共に任じており、当選後、間も無く派閥横断の政策集団「新風政治研究会」を結成した。主なメンバーには、野中英二、森美秀、有馬元治、西銘順治、中山利生、国場幸昌、中村弘海、綿貫民輔、稲村利幸などがいた。田中角栄も小坂の経済通であることと、明確な言動に目をかけ、昭和48年(1973年)第二次田中改造内閣で総理府総務長官として起用する。小坂も内閣官房長官の二階堂進とともに田中内閣を支える。特に労働問題では、春闘などをめぐり労働界に持っていた人脈を生かして活躍した。
その後、小坂は、二階堂や宏池会の鈴木善幸らと勉強会として「二十一世紀クラブ」を作り、江崎真澄、田村元なども加わり、田中派入りする。昭和53年(1978年)大平正芳内閣の経済企画庁長官、昭和56年(1981年)鈴木善幸内閣の運輸大臣となる。総理総裁候補として、大平、中曽根康弘とともに「大中小」、安倍晋太郎、竹下登とともに「安竹小」と小坂の名も挙がるようになったが、運輸大臣時代に国鉄改革に積極的に動かなかったと見られたことが、中曽根や臨調会長であった土光敏夫の忌避に触れ、政財界の支持を喪う一因になったとされる。
昭和59年(1984年)に超党派で日米議員連盟を設立し初代会長に就任する。田中角栄が倒れ、竹下派と二階堂グループに分裂した際には、二階堂支持に回った。昭和63年(1988年)勲一等旭日大綬章を受ける。平成2年(1990年)に政界を引退。平成5年(1993年)に信越化学工業会長として復帰する。平成7年(1995年)に同社最高顧問に就任し、第一線から退いた。
平成8年(1996年)2月23日死去。