田村元
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田村 元(たむら はじめ、1924年5月9日 - )は、昭和・平成時代の日本の政治家、元衆議院議員であり、第66代衆議院議長(在任期間、1989年6月2日 - 1990年1月24日)。
[編集] 来歴・人物
三重県松阪市に生まれる。旧制・三重県立宇治山田中等学校(現・三重県立宇治山田高等学校) 卒。「タムゲン」の通称で知られる。荒船清十郎とともに声が大きく、「国会の大音声」と呼ばれた。また、田中角栄からは「謀将」と呼ばれもした。父親の稔は、弁護士出身で三重県議会議員を経て、1942年の翼賛選挙で衆議院議員に当選した。(田村稔は戦後に松阪市長となる梅川文男が治安維持法違反で逮捕された際の弁護や救援活動を行なっている。これは梅川が元の家庭教師をしていたという親しい関係であったことが理由であると思われる。)
1950年に慶應義塾大学法学部卒業後、中学校の代用教員を経て、参議院議員秘書となる。1953年、衆議院三重2区(当時)から立候補するが落選。1955年の衆議院議員総選挙に再度立候補し、当時、最年少の30歳で当選した。当初、大野伴睦派に所属し、自由民主党青年部長に就任する。1960年に建設政務次官、1962年に労働政務次官を勤める。
1964年6月に大野伴睦が死去。その後派閥は村上勇派と船田中派に分裂し、田村は村上派に所属する。1972年の佐藤栄作引退を受けての自民党総裁選挙では村上派を引き継いだ水田三喜男派をまとめ、田中角栄を支持し、第一次田中内閣で労働大臣として入閣した。労相時に田中首相と労働界首脳の間の接着剤として会議を設けたり、週休二日制や定年の延長などの問題に取り組んだ。
水田派から江崎真澄らと田中派入りするが、直後に田中が逮捕された時は、思わず「しまった!」との声を上げたと言われる。当初、二階堂進の側近を任じるも、次第に距離を置くようになり、派内で「田村グループ」を形成する。鈴木善幸首相が自民党総裁選挙出馬断念を表明し、後継総裁をめぐり、鈴木首相、執行部代表の二階堂幹事長、最高顧問代表の福田赳夫元首相の三者会談が紛糾した際、国会対策委員長で何の権限もない田村が突如三者会談に乱入し、総理総裁分離論を主張したエピソードは有名。
田中元首相が脳梗塞で倒れたあと、奥田敬和の勧めにより、中間派をまとめ竹下派に合流した。第3次中曽根康弘内閣で通商産業大臣。続く竹下内閣でも留任。1989年6月2日、予算案強行採決を巡る国会混乱の引責で原健三郎衆議院議長、多賀谷真稔副議長が辞任したことで、後任の衆議院議長に選出されるが、これは、うるさい田村を棚上げにするものであった。消費税導入に伴う衆議院の解散による第39回衆議院議員総選挙後、議長職は桜内義雄に回り、自民党最高顧問となる。1996年の第41回衆議院議員総選挙には出馬せず、政界を引退。連続当選14回(中選挙区制での連続トップ当選は日本記録)。2004年に松阪市名誉市民に選ばれる。
[編集] 栄典
- 平成6年11月3日:勲一等旭日桐花大綬章