山川静夫
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山川 静夫(やまかわ しずお、1933年2月27日 - )は、昭和後期から平成期(1950年代後半~1990年代前半)のNHKアナウンサーで、現在は文芸評論家(特に歌舞伎)、エッセイスト。静岡県静岡市(旧・静岡市)出身で、静岡浅間神社の神主の家に生まれた。
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[編集] 来歴・人物
國學院大學文学部卒業。日本の伝統文化に造詣が深く、國學院大學在学中から歌舞伎の声色が得意で、ニッポン放送の歌舞伎番組に出演していた経験を持つ。中村勘三郎 (17代目)とも親交があった。
1956年にNHKに入局。青森、仙台、大阪に勤務の後、1968年に東京アナウンス室に配属。前期の担当番組はお父さんはお人よし、女性手帳(大阪制作)、お楽しみグランドホール、ひるのプレゼント、歌のグランドショー、お国自慢にしひがしなど。
後期は科学番組ウルトラアイ、トライ&トライ、くらべてみればなどの生活科学番組の司会を15年に渡って担当、体当たりの実験参加が人気を博した。またNHK紅白歌合戦の司会を総合司会・進行役を含め、通算14回担当した。
著作も多く、1974年に刊行した綱太夫四季が処女作となる。
1990年に特別主幹(事務理事待遇)職に就任するが、その後も当時の担当番組だった「くらべてみれば」ではアナウンサーとして司会を続け、1991年と1992年には「国民的番組」の名誉復権をかけて10年ぶりに「紅白」の総合司会として復帰する等、1994年3月(実際、山川は1993年の時点で60歳を迎えていた)に定年退職するまで"NHKの顔"として活躍した。2度にわたり脳梗塞に倒れたが短期間で復帰。
1991年からは国語審議会委員を務め、また文芸評論家として雑誌・単行本に評論・エッセイを執筆するなど、退職後はブラウン管から一歩離れた立場での活躍が目立っている。但し、現在もNHK衛星第二では、まさに自らのライフワーク的番組ともいえる「華麗なる招待席」のホスト役を担当する等、主にNHKの番組で健在ぶりを発揮している。
同期にはスポーツアナウンサーとして知られる向坂松彦(故人)がいる。元日本テレビアナウンサー志生野温夫は大学時代の同級生。NHKの採用試験は、志生野とともに受験したが、志生野は最終試験(面接)で落第してしまった。
[編集] 主な担当番組
- 女性手帳
- ひるのプレゼント(1970,4~1972?)
- 歌謡グランドショー(のちに歌のゴールデンステージ→歌のグランドショーに改題(1972,4~1978,3)
- お国自慢にしひがし(1974,4~1976?)
- ウルトラアイ(1978,5~1986,3)
- トライ&トライ(1986,4~1991,3)
- くらべてみれば(1991,4~1994,3)
- 山川静夫の華麗なる招待席(1994(NHK定年退職後)~現在、衛星第2)
- NHK紅白歌合戦白組司会(1974~1982)、総合司会・進行役(1971~1973、1991、1992)
- 思い出のメロディー(1974~1976)、ほか
[編集] 主な著作
- 綱太夫四季 1974年
- 他人のふんどし 1976年
- 小説 和田信賢-そうそう、そうなんだよ- 1983年
- 勘三郎の天気 1988年
- 名手名言 1991年
- 胸の振子 1992年
- 当世やまとごころ 1992年
- オフィス忠臣蔵 1994年
- 私のNHK物語-アナウンサー38年- 1994年
[編集] 受賞歴
[編集] エピソード
- 15年間にわたり放送された平日朝のワイドニュース番組「スタジオ102」の後番組として「NHKニュースワイド」がスタートする際、メインキャスターとしてスタッフは知名度抜群の山川を起用して、人気急上昇中であった徳光和夫アナウンサー(当時)司会の日本テレビ系「ズームイン!!朝」に対抗しようと考えたが、山川当人は他のアナウンサー仲間からの説得にも全く首を縦に振らず、これを頑なに拒否。このときに説得に当っていた後輩の森本毅郎アナウンサー(当時)が代わりにメイン司会として抜擢され、フリーへの布石を築くこととなった。
- 古典芸能、とりわけ歌舞伎に対する造詣・関わりが強く、國學院大学在学中には歌舞伎研究会を自ら設立させた。また、先代(17代)中村勘三郎とは私生活でも親交が深く、学生時代には勘三郎は二役を務める舞台などで勘三郎が早替りのために舞台袖に下りている間、勘三郎の物真似をする山川の声を使い、その間を繋げたことも度々あったという。
- 歌番組における「茶化し」を含んだ司会ぶりも当時のNHKアナウンサーの概念からすれば型破りと評されることもあった。特にNHK紅白歌合戦白組司会を始めて担当した回において布施明を紹介する際に述べた「布施明、お尻の下はすぐかかと」という文句は余りに有名。また、1977年の紅白ではちあきなおみが「夜へ急ぐ人」を髪を振り乱しながら熱唱したあと、「なんとも気持ちの悪い歌ですね~」とこの歌を評したり、1979年の紅白ではロングヒットのために3年連続で「北国の春」を紅白で披露することとなった千昌夫の紹介時に「なんともしぶとい人です。」と述べるなど、ブラックユーモアともとれる言葉を選んで司会をしていた。あえて高橋圭三・宮田輝という目標としてきた名アナウンサーの路線を踏襲せずに自分の司会スタイルを確立しようとしていた姿勢の表れとみることができ、紅白におけるアナウンサー司会の形式に新風をもたらした功績は大といえる。
[編集] 関連項目
カテゴリ: NHKのアナウンサー | 1933年生 | 静岡県出身の人物