山本五十六
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山本 五十六(やまもと いそろく、1884年(明治17年)4月4日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将正三位大勲位功一級。
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[編集] 経歴
- 新潟県長岡市で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる。その時の父親の年齢から「五十六」と名付けられた。長岡町立阪之上尋常小学校、長岡中学校各卒業。
- 1904年(明治37年)、海軍兵学校を卒業。その直後日露戦争が勃発し、日本海海戦において少尉候補生として乗船していた装甲巡洋艦「日進」の艦上で、左手の人差指と中指を失う重傷を負う。
- 1915年(大正4年)に、牧野忠篤子爵の口添えがあり山本家を相続。山本家(山本帯刀義路)は、旧越後長岡藩の上席家老連綿の家柄であったが、戊辰戦争・北越戦争の敗北で、戦争犯罪者として廃絶され、明治17年(1884年)に御家再興を許されていた。しかし、女戸となりやがて戸籍内にあったものは死亡したので、当時の戸籍用語でいう廃家となっていた。詳細は下記・別項目の山本家相続の理由を参照されたい。
- 1919年(大正8年)、駐米武官となり、ハーバード大学に留学(-1921)。
- 1924年(大正13年)、海軍霞ヶ浦航空隊副長(大佐)。
- 1925年(大正14年)、再度駐米武官となる。
- 1928年(昭和3年)、軽巡洋艦五十鈴・航空母艦赤城各艦長を務める。
- 1929年(昭和4年)、ロンドン軍縮会議に海軍側専門委員として参加。
- 1929年(昭和4年)11月30日、任海軍少将。
- 1930年(昭和5年)12月1日、海軍航空本部技術部長となる。
- 1934年(昭和9年)9月7日、ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表に任ぜらる。
- 1934年(昭和9年)11月15日、任海軍中将。
- 1935年(昭和10年)12月2日、海軍航空本部長に就任。
- 1936年(昭和11年)12月1日、永野修身海相により海軍次官になる。
- 1937年(昭和12年)、米内光政海相のもとで次官留任。
- 1939年(昭和14年)8月30日、聯合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に親補さる。次官当時からの懸案事項の日独伊三国軍事同盟に最後まで反対する。航空機による時代の到来を予期し、大和の建造に反対し日米開戦にも反対していた。
- 1940年(昭和15年)11月15日、任海軍大将。
- 1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争勃発。真珠湾攻撃は山本の発案と言われている。
- 1943年(昭和18年)4月18日、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で、乗機一式陸上攻撃機をアメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機に撃墜され戦死した。(海軍甲事件)
- 山本の死は一ヶ月以上秘匿され、5月21日の大本営発表で公になった。
- 同年6月5日、日比谷公園で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政が務めた。
- 山本は歴代の聯合艦隊司令長官で唯一の戦死者(古賀峯一大将は殉職扱い)である。
[編集] 戦後の評価
明るく冗談好きで、部下・同僚からの信頼が非常に高かったこと。当時の欧米事情に詳しく、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していたこと。航空機戦力に早期から着目し、海軍航空隊設立に尽力したこと。日米開戦が開始されると「短期決戦・早期和平」という日米間に於ける国力の差を冷静に分析した現実的な作戦計画を実施しようとしたこと等、旧日本海軍軍人の中でも傑出した名将としての評価は今日でも高く、敵であったアメリカ側からも山本五十六を賞賛する意見が多い。
山本五十六自身主に軍政畑を歩いてきた人物であり、連合艦隊司令長官就任も采配・指揮能力を買われたものでは無く、三国同盟に強硬に反対する山本が、当時の軍部内に少なからず存在した三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を当時の海軍大臣米内光政が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざける為に連合艦隊司令長官に任命すると云う避難的人事を行ったと云う事情もあり、実戦指揮能力の低さを批判するのは酷であるとする意見も少なくはない。実際、戦後発見された山本から友人に宛てた手紙等により、開戦の際には米内を連合艦隊司令長官にした上で、自身は海軍中央へ戻り軍政面で米内を支え、日米開戦の火消し役をしようと考えていたらしく、自らの実戦指揮能力に疑問を抱いていたとも言われている。
山本が日米開戦時に連合艦隊司令長官ではなく、海軍大臣或いは海軍次官等の政治に意見を述べられる立場にいたのであるなら、その先見性と政治力をいかんなく発揮できたのではないかとする、山本五十六の軍政家としての能力を惜しむ意見も多い(例えば、秦郁彦なども戦略家としての山本には否定的であるが、軍政家としてはそれなりの評価をしている)。艦隊勤務の経験が浅かった故に、海戦術のドグマに捉われず航空機の有効性に気が付き、航空戦を重視する主張を行い得たとする意見もある。
一方、山本に対する否定的な意見としては下記の事項が中心となっている。
- 軍令部の作戦計画を無視した独断専行型の作戦を立案し実施した
- 真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に見られる様に全ての作戦計画が非常に投機的・博打的なものであった
- 麾下の各艦隊司令官に対して適材人事改革を行わなかった
- 情に流されやすく信賞必罰を行わなかった
- 戦況推移に沿った指揮を行わなかった
これらの理由により、平均点以下の「凡将」あるいは「愚将」であったとする辛辣な評価を下している意見もある。これに関しては、1948年の段階でサミュエル・エリオット・モリソンが真珠湾攻撃を「愚手」と斬って捨てているように、比較的早くから出てきた見方でもある。但し、真珠湾攻撃の投機性については、もともと徹頭徹尾米国との開戦に反対しており、それでも強いて米国と戦うならばこの作戦以外ないとのギリギリの判断から出たもので山本自身の判断力の限界から出たものではないとする反論もある。
3番目から5番目の理由に関して、一番槍玉に挙げられているのは黒島亀人に関する事項である。山本は黒島を自身の戦死の寸前の頃まで長く手元に置いた。「同じ参謀が作戦を練っていたのでは、手の内が見破られる」との忠告に山本は「黒島は独創的なアイデアを出すので手放せない」と断り、あるいは「黒島のような人物がいないと天下の大事は成し遂げられない」とかばった事がある。山本の人の好き嫌いが極端に現れた例として、山本を戦略家としては否定する理由に挙げている一方で、人材面で黒島に代わる適当で有能な人物がいたのかどうかという反対意見もある。
国葬が行われたことに関しても、否定的な見方をする人物がいる。佐藤賢了がその一人であり、ミッドウェー海戦の失敗を引き合いに出して「『国葬にするのは適当ではない』と東條首相に進言したが、東條は陸海軍の協調を優先して進言を退けた」という回顧をしている。「敗戦に導いた山本を国葬で葬ったのは不適当」という意見も相当あるが、敗戦は結果論として擁護する意見もある。
[編集] 山本家相続の事情
幕末の越後長岡藩は、初め武装中立を主張したが官軍に認められずに、奥羽越列藩同盟に与し官軍と交戦して善戦した。
しかし物量に勝る官軍に敗れ、その戦争責任を追及されたため、越後長岡侯は、新政府の照会により、河井継之助秋儀と、山本帯刀義路を反乱軍の首謀者として、太政官に届け出て、詫びを入れて藩主家の存続を図った。このため山本家は罪により、家名断絶となった。会津藩・米沢藩・二本松藩・庄内藩を初めとする同盟諸藩も同じような手法で、謝罪した。近代化と国内安定を急ぐ新政府はこれを許容(或いは政治決着)して、藩主家の斬首や断絶は行わなかった(国立公文館文書・東京大学史料編纂所維新史引き継ぎ史料など)。
山本帯刀義路とその家族は、藩主家のために最大の自己犠牲を支払っていたと言える。越後長岡侯は、近代化された日本で、辛くも特権階級として生き残ることができて、子爵に列していたが、過去の報恩のため、山本家の家名再興に腐心していた。そこで 明治時代から、太平洋戦争終戦まで、わが国のエリートコースの一つにあげることができた海軍兵学校卒の士官であった長岡士族・高野五十六が、六男であったため、彼に白羽の矢を立て、前時代まで名門であった山本家の家名を継承させたものである。江戸時代であれば高野家(100石台前半の家禄)から、山本家(1,300石)の家名を嗣ぐことは常識では考えられなかったが、時代の変化で経歴・学業成績などがこのギャップを埋めたものと推察される。
[編集] その他
- 山本の映像は戦死直前にラバウルで撮影されたものと、海軍病院船氷川丸を訪問した時のものが残っている。前者は日本ニュースで紹介され、後者は記録映画「海軍病院船」で見ることが出来る。
- 肉声はロンドン海軍軍縮会議(1934年の第二次軍縮予備交渉)の代表を務めた際に、当時開設されたばかりの日英間無線電話(国際電話)を介して録音されたものだけである。国葬当日の夜に特別番組「在りし日の山本元帥」の一つとして放送された他、旧海軍軍楽隊メンバーが集まって録音した行進曲集のレコード・CDにも東郷平八郎のそれとともに収録されている。音質が非常に悪いが、大まかな内容としては、前半では交渉団が日本を出発した翌日(1934年9月21日)に襲来した室戸台風の被害にあった人々への見舞いの言葉と復興を願うコメントを述べ、後半では山本自身や松平恒雄を含めた関係者が総力を集めて交渉成立に向けて全力を注いでいる、といったものである。なお、録音の中で山本は「海軍少将」と言っているが、渡英中に海軍中将に昇進している。
- 山本の墓は多磨霊園と故郷・長岡の長興寺にあるが、後者にある墓は2004年10月23日の新潟県中越地震で倒壊し、翌2005年4月に復旧した。また、山本が長岡に帰省するたびに立ち寄っていた曹洞宗の禅寺・堅正寺も倒壊。この寺は1964年の新潟地震でも被害を受け、「もう一度地震が来たら倒れる」と言われていた。
- 山本の生家は長岡空襲で焼失し、現在は山本記念公園となっている。ここには復元された生家や胸像が建っている。この胸像はもともと全身像で、かつては霞ヶ浦にあった海軍航空隊にあったものであったが、終戦後の1948年に密かに霞ヶ浦に投げ込まれ、後に引き上げた際胸部のみを長岡の山本元帥景仰会が貰い受け、ブロンズ像に鋳直したものである。また、公園の向かい側には山本五十六記念館があり、家族や親友に宛てた手紙や軍服などの遺品、ブーゲンビル島上空で戦死した時に搭乗していた一式陸攻の左翼などが展示されている。
- 一説によると長岡空襲は、当地が彼の故郷であったというだけの理由で行われた。しかしこれを断定できるだけの史料は、米国公文書館には存在していない。山本五十六の故郷が新潟県長岡であるとの記録が残るのみである。しかしながら、米国マスコミの取材に、当時の軍関係者が、山本五十六の故郷だから国民の戦意喪失のために空襲をしたとエピソードを語っている映像がTVで報道されたことがある。また長岡空襲を紹介した書籍・文献などに山本五十六の故郷だから、空襲が行われたともいうとの記述が散見される。長岡空襲は、市民を怯えさせるように大量の焼夷弾がB29から落とされて、市内の約8割を焼き尽くしたが、軍施設・公共施設より市街地が中心に狙われるなど、一般の空襲と目的が違っていたことが伺える。
- 無類の博打好きで、腕もかなりのものであった。特に将棋とポーカーは仲間内でも右に出る者はおらず、軍艦内でもよく副官などと将棋に興じていたという。本人は「博打をしないような男はろくなものじゃない」とか、「海軍辞めたらモナコへ行ってカジノを経営したい(経営ではなく「ばくち打ちになる」と言っていたとする説もある。)」などと多くの人間に語っていたそうだ。ちなみにそのモナコではカジノ協会から出入り禁止令を受けている。日本人では史上2人目であったという。(一軒のカジノから出入りを禁止されたとし、そういう例はモンテカルロの賭場の歴史上、山本が2人目だとする説もある。)
- 当時の海軍軍人の例に洩れず女性関係も派手であったが、その対象は玄人の女性であり、これは当時の倫理からして逸脱するものではなかった。女性に対し細やかな気配りを見せ、宴席では得意の逆立ちで場を盛上げ、花柳界ではかなりの人気者であったという。山本の席には呼ばれていないのに芸伎が集まってくるので、海軍仲間から羨ましがられていたという。
- 山本の得意芸で最も知られているのは逆立ちであるが、その中でも有名なのはアメリカへ渡る船でパーティーが催された時、日本人が誰も芸をやらないからと階段の手すりの上で逆立ちして皆をあっと言わせたという話である。その他にも妙義山頂の岩の上、急流下りの川舟の舳先など失敗すれば大けがをするような場所でわざと逆立ちをして、皆がハラハラする様を楽しんでいたという。
- 長男・義正の府立一中受験のため、鎌倉から東京・青山南町(現・南青山)に居宅を移し、のちに府立一中父兄会理事にも就任している。娘を青山の青南小から府立第三高女にやっていた堀悌吉の勧めと、長岡中学時代の同級生で一中教員を勤めていたこともあった目黒真澄のアドバイスにも預かっていた。
- アメリカ着任時、日本では専売指定されていた砂糖と塩がともにプラントで大量生産され市井で大量消費されていることをワシントンの喫茶店で身をもって知り、彼我の物量の圧倒的な差にショックを受ける。
- 山本はロンドン海軍軍縮会議の次席随員として派遣されたが、現地で最も強硬に対米7割を主張して若槻礼次郎全権を困らせ、大蔵省から派遣された賀屋興宣が財政面からの意見を言おうとした際に「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ!」などと怒鳴りつけた逸話がある。
- 艦隊派の重鎮として、山本の同士や友人を海軍から追放した東郷平八郎元帥に対し、否定的な感情を抱いていたとされる。昭和9年(1934年)東郷の死去に伴い東郷神社が建立された際、「周囲に、面倒くさいことをやって貰って※1神様になったのだから、拝めば何か御利益があるだろうよ」と皮肉交じりに語ったと伝えられている。
- 真珠湾攻撃の成功により、海軍内で自らが軍神の如く扱われることに不満を持っていたと云う。戦死後周囲から山本神社の建立を求める意見が出されたが、生前山本の意思を承知していた米内光政から「故人の主義にそぐわない」として、神社建立が中止になった。
- 山本五十六の語録に見られる「やってみせて 言って聞かせて やらせて見て ほめてやらねば 人は動かず」や「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」の「男の修行」は格言として評価が高く、座右の銘としている経営者や指導者は多い。「やってみせて・・・」は上杉鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」から影響を受けているとされる。
- 戦死時、山本の遺体を最初に発見した第6師団第23連隊の某小隊長の証言として、『山本長官の遺体は座席と共に放り出されていた。そして軍医長が地を這って近寄ろうとして絶命した痕跡を残していた』としている。また、他の遺体が黒焦げで蛆虫による損傷が激しいにもかかわらず、この二名だけは蛆も少なく比較的綺麗な形で残っていた。つまりこれが本当だとするならば、不時着から暫くは両名生存していたと言う事になる。
- 上記関連事項として、軍医の検死記録によると『機銃弾がこめかみ(眦とも)から下アゴを貫通しているため、ほぼ即死』とのことだったが、攻撃隊のP38戦闘機の機銃は13mmであり、頭部に命中すればまず頭半分は吹き飛ぶはずである。山本の頭部を打ち抜いていたのは、間違いなく拳銃弾などの小口径の銃弾となる。それゆえに「山本は自決した」「何者かに射殺された」などとする想像をかき立てた経緯がある。
- 戦死後、ドイツより剣付柏葉騎士鉄十字章を授与される。この勲章の受章者は159名しかおらず、山本は唯一の外国人受賞者である。
※1 軍縮条約締結に際しての容喙を指すものと思われる。
[編集] 系譜
高野貞通=高野貞吉-高野五十六
山本氏の先祖の系譜については、越後長岡藩の家臣団を参照のこと。
- 親
- 兄弟
- 長兄・高野譲-高野力
- 次兄・高野登
- 三兄・高野大三
- 四兄・高野留吉
- 五兄・高野季八
- 姉妹
- 長姉・高野加壽
- 義姉
- 山本初路
- 山本玉路
- 妻
- 正妻・ 山本礼子
- 愛人・ 河合千代子
- 息子
- 嫡男・山本義正
- 次男・山本忠夫
- 娘
- 長女・ 山本澄子
- 次女・ 山本正子
[編集] 描いた小説、映画、テレビドラマ、漫画
- 山本五十六/阿川弘之著
- 太平洋の鷲
- 軍神山本元帥と連合艦隊
- 太平洋紅に染まる時
- 連合艦隊司令長官 山本五十六
- ミッドウェイ
- 連合艦隊
- 零戦燃ゆ
- 米内光政と山本五十六は愚将だった
- ジパング
- 紺碧の艦隊
- 旭日の艦隊
- 逆襲連合艦隊
- トラ・トラ・トラ!
- 父 山本五十六
- 海燃ゆ
- 男たちの大和/YAMATO
- 天下無双 江田島平八伝
- 海にかける虹~山本五十六と日本海軍(長時間テレビドラマ)
- 愛と哀しみの海・戦艦大和の悲劇(長時間テレビドラマ)
[編集] 演じた俳優
- 大河内傳次郎 - 「太平洋の鷲」
- 佐分利信 - 「軍神山本元帥と連合艦隊」
- 藤田進 - 「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」
- 三船敏郎 - 「連合艦隊司令長官 山本五十六」「ミッドウェイ」他
- 山村聡 - 「トラ・トラ・トラ!」
- 小林桂樹 - 「連合艦隊」
- 丹波哲郎 - 零戦燃ゆ
- マコ岩松 - 「パール・ハーバー」
- 古谷一行 - 「海にかける虹~山本五十六と日本海軍」
- 二谷英明 - 「愛と哀しみの海・戦艦大和の悲劇」