山本義路
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山本帯刀義路(やまもと たてわき よしみち)。越後長岡藩上席家老(在所家老)・軍事総督。家臣中次席の家柄・知行1300石。弘化2年3月7日生~明治元年9月9日没。号は竹塘(ちくとう)。妻は千代。
[編集] 概要
越後長岡藩上級家臣であった安田氏320石の庶子として生まれる。初名は堅三郎。上席家老の筋目である山本家の養子に8歳でなる。元服して部屋住み身分のまま側用人(500石)となったが、やがて養父の山本勘右衛門義和の隠居により、家老職となる。
中肉中背で、他人といたずらに争わず謹直な性格であったと云われる。
山本家の遠祖は、駿河国富士郡山本村から、三河国宝飯郡に渡来した豪族であり、16世紀には東三河六騎衆の一つに数えられたが、一説によると武田信玄の伝説的軍師の山本勘助の弟を始祖とする一族と云われる。
16世紀前半の宝飯郡山本氏は、戦国大名の今川氏から領地を給付されていたが、宝飯郡牛久保城主・牧野氏より一足早くこれを見限り、牧野右馬允成定・真木越中守定善(真木重清)等を誘って徳川家康に恭順した。
この山本氏の家系は、征夷大将軍に謁見(御目見得)の資格を持ち将軍家直参の身分を兼帯していた。そして帯刀・帯刀左衛門・勘右衛門などを通称として用いていた。
藩主牧野忠訓・前藩主忠恭から絶大な信頼を持たれて、藩内で幕末に台頭し、門閥打破を狙った藩士河井継之助と友好的であり、彼が推進した越後長岡藩の慶応改革に協力した。この改革で山本家の知行を1300石から、400石となした。
山本帯刀義路は、戊辰戦争・北越戦争では越後長岡藩の大隊長として出陣。2度目の長岡城落城後、藩主一家と、長岡藩兵の多数は、米沢藩に逃れたが、山本隊はしんがりを鞍掛峠(別名八十里峠)で勤めた。
米沢に落ちなかった山本隊の精鋭40数名は、8月末会津藩兵と合流して、奥羽越列藩同盟の盟主・会津若松城主松平氏(保科氏)を守るため会津飯寺(にいでら)村で遊撃隊として、官軍(主力は徳川譜代の宇都宮藩兵)を相手に奮戦した。
会津若松城は、戦術上のミスで城下の米蔵との糧道を断たれていた。このため他藩の兵を城内に入れて、籠城して冬将軍の到来を待つことが困難となっていたので、他藩の同盟軍は、招き入れられずにいた。
山本隊は、飯寺(にいでら)で官軍(宇都宮藩兵)を会津藩兵と挟み撃ちにする作戦に出たが、会津藩兵は敗退する一方で、官軍には新手の黒羽藩兵の増派があり、山本隊は霧の中で混乱して友軍と同士討ちをしたうえ、孤立して囲まれてしまった。
明治元年9月8日早朝、同村で宇都宮藩兵に捕縛された。このときに居た長岡兵44名のうち42名が戦死した。これが世に云う会津飯寺(にいでら)の戦いである。
このとき越後口軍監等は、山本を惜しんで、詫びれ(恭順すれ)ば命だけは助けるとの内旨があったと云われるが、これを拒絶したうえで、官軍の陣営で「藩主われに戦いを命ぜしも、未だ降伏を命ぜず」と陳述したとされる。翌9月9日に、三河国牛久保城以来の譜代の牧野氏家臣・渡辺豹吉とともに斬斬首されて、阿賀野川(大川)の河原の露と消えた(現住所は、福島県会津若松市門田町飯寺大字川原)。
死に臨み持っていた軍資金200両を官軍(宇都宮藩家老)に差し出して、長岡藩兵の追善供養を求めたとも、役に立てて欲しいと言ったとも云われている。
維新後は、山本家は廃絶とされて家名再興は許されなかった。
山本義路の遺族は、はじめ潜伏していたが、明治2年9月3日、藩主牧野鋭橘が、三河国牛久保城以来の譜代の牧野氏家臣である陶山霜台の嫡男・左右平を100石にて召出し、富士万衛と姓名を改めさせて、密かに扶養していた。
明治17年(1885年)、その罪は赦免となったが、実子は女子2名(玉路・初路)だけで既に病没し、家督相続人がなく除籍されて、そのままになっていた。このような状態を当時の戸籍用語で廃家と呼んだ。そこへ長岡士族・高野家(高野貞吉)から、廃家を再興する形で養子に入ったのが山本五十六である。
葬地は、新潟県長岡市稽古町の長興寺。
余談であるが、宇都宮藩主戸田氏は、徳川幕府の譜代大名であるが官軍に与した。その遠祖は、三河国渥美郡・田原城主戸田氏の嫡家の流れを汲む一族である。田原城主戸田氏嫡家と、山本氏等の東三河六騎衆は、戦国期にしばしば合戦に及び、多くの血を流していた。