性的嗜好
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性的嗜好(せいてきしこう、英語:Sexual Preference)とは、人間の性的行動において、対象や目的について、その人固有の特徴のある方向性や様式を意味する。すなわち、対象や行動目標において特定の好みや拘りが存在する場合、何らかの性的嗜好を持つと表現できる。ただし、対象の性別についての方向性に関しては特に性的指向と呼び、通常は性的嗜好には含めず分けて扱う。
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[編集] 概説
例えば、性的行動は一人でも成立するが、その場合、性的な空想に耽って性的興奮を楽しむとか、また自慰などを行うとき、男性なら特定のアイドルのイメージを想い浮かべるとか、あるいは女性なら、花の咲く苑でロマンティックな情景を想像するなどの形で、嗜好が具体性を持つ。
相手がいる場合には、男性だと、大きな乳房の女性がいいとか、いや小振りな胸が好きであるとかで嗜好がある。女性だと、筋骨逞しい野性的な男が力強く抱きしめてくれるのが望ましいという人もいれば、体つきも言葉も優美な男性が良いという人もいる。
[編集] 嗜好の多様性
性的嗜好は、一人での想像の場面でも、あるいは実際に相手と性的交際を結んでいる場面でも、様々なものがありえる。何を想像するか、特定の人物を想像したり、特定の場面やシチュエーションを想像することが、好ましい場合もある。
一人の想像でも、相手がいる場合でも、対象の姿や身体の特徴、衣服や装身具の種類、話し方や身振り、動作、更に、場面の香りや色や雰囲気、照明の光や、椅子とか寝台、マットレスとか、色々な家具や道具などに好みのあることがある。もっとも普通に男女が性的行為を行う場合でも、前戯をゆっくりと楽しむ者もいれば、いきなり行為に移るのが好きだという人もいる。どういう色の下着を男女ともに着用しているか、女性の下着だと、レース装飾の過剰なエロティックなものがあり、そのような下着を見るだけで射精してしまうという男性も存在する。
性的行為に移っても、性交の体位に好みがあることがある。ある女性は、仰向けになった男性と女性上位で交わるのが好きだというのもあれば、女性をドッグスタイルで、背面から交わるのが快楽だという男性もいる。SM的要素が入るのが好みだという人もいる。イギリス人は18世紀、19世紀頃には、教育の厳格さで有名であり、子供を鞭打って躾をしたが、その結果、当時のイギリスの男女は成人した後、性的行為において、相手を鞭で打ったり、自分が鞭で打たれたりすることが嗜好である人が多数いた。
日本では、男性向けポルノ雑誌には、ときとして縄で縛られた全裸の女性の絵や写真が掲載されていることがあり、縛り方にも実に多様な種類があり、緊縛師などという女性を縄で縛る技術が卓越した者も存在する。このような嗜好は、ボンデージあるいは縛り・緊縛などと云われ、欧米でも珍しいことではない。
女装すると興奮する男性もおり、男女ともに、相手の排尿の情景を見ると興奮するという人もいる。バイブレータや張り形などの道具を使うのが好きだという男女もいる。バナナを局部に挿入するのが好きだという女性もいれば、張り形を使って女性に肛門を犯してもらうのが好きだという男性もいる。どのような行為や仕草や、特徴や状況が性的な興奮を引き起こしたり、魅惑させたりするか、想像を絶して多様なものが個々人である。金粉を肌に塗った女性の裸体を見て興奮する者もいれば、肌に塗るというのは同じでも、自己や他者の糞便を全身に塗りたくって、恍惚となる者もいる。
[編集] 社会の規範
しかし、性や性行為は、それが生殖をもたらし子孫を再生産するということより、社会や共同体においては重要な意味を持ち、その為、社会的に、あるいは宗教的に認められない行為や、逆に推奨される行為の様式・種類などが生み出された。これらは、禁忌が禁止を意味し、他方、正常の基準が、強制力を持つ推奨を意味するようになった。
[編集] 同性愛嗜好をめぐる規範
キリスト教を文化の脊柱に持つ西欧においては、同性愛は嗜好の一種で禁忌とされ、宗教的世俗的にも逸脱で、犯罪であった。西欧近代においては、社会の規範に反するとされる性的嗜好の様式が想定されるようになり、クラフトエビングは『性の精神病理』において、異常な性的嗜好・性的倒錯の類型を症例記載した。
しかし、西欧では異常とされた同性愛は、自余の多数の社会においては、特筆すべき異常な嗜好とも、精神の障害とも見なされていなかったことも事実で、古典ギリシアでは、男性のあいだの愛は称賛されるものであり、古代ローマにおいては、人間の性的成熟には、異性愛と同性愛の両方が必要であるとも考えられていた。そのことは、近代以前の日本や中国、また他の非西欧社会でも似たような事情であった。
現在では、国際医学会やWHO(世界保健機関)により同性愛は「異常」「倒錯」「変態」とはみなさず、治療の対象から外されている。
[編集] ローマと中国の性的放縦
更に加えれば、古代ローマにおいては、性的嗜好の多様性と偏倚性は想像を絶するばかりであり、エロティシズムの豊富さと洗練性において、ローマは破廉恥なまでに放縦であった。皇帝が娼婦の陰毛を脱毛することも珍奇なことではなく、総じてローマの貴族たちは無毛嗜好を自然としていた。これに並ぶ性的嗜好の奇怪なまでの放縦性は、纏足などに快楽を見出した中国文明の性的ソフィスティケーションにも窺える。
[編集] 正常と異常
性的嗜好に関しては、何が正常か異常かというようなノルム判断は、近代西欧が生み出したものと言える。西欧においても中世にあっては、禁止される性的嗜好、社会の規範に抵触する嗜好や行為は存在した。しかしそれは共同体の秩序の維持のために要請される規範であり、正常と異常ではなく、善良と邪悪の対立とも言えるものであった。社会の秩序を攪乱する行為や傾向性は断罪せねばならなかったが、性的嗜好の多様性は、暗黙の了解において承認されていたものである。
正常と異常は、プロテスタンティズムの近代が生み出し強調したものと言える。それ以前には、性的嗜好について、個々人の望ましさや、他人の行為に対する不快や嫌悪はあっても、それが公然と裁かれる制度は存在していなかった。個人主義の擡頭は大衆化社会をもたらし、個人の内面の自由に対する社会の干渉が、他者志向的なパーソナリティ文化の成立により肯定された結果、性的嗜好における正常と異常のノルムが流布したと言える。
自慰は発達途上の青少年においても成人においても、人間の性的行動としては自然である。しかし、19世紀のドイツやイギリスにおいては、明確な根拠も実証もないにも拘わらず、自慰は有害で異常であると医学で見なされ、自慰を強制的に禁止するための少年用の拘束具の類までも実用化された。多数の人が従事する性的嗜好行動は正常で、多数派から不快感をもたれる少数者の性的嗜好は異常であるとの基準は、19世紀より20世紀にかけて造り出された社会観念装置と言える。
[編集] 性的嗜好と人間の実存
確かに精神疾患は歴然と存在し、ある種の精神疾患は性的な倒錯を随伴する。しかしこの場合、異常な性的嗜好が精神疾患を引き起こしたのではなく、寧ろ、人格における障害が「異常」と見なされる性的嗜好の形態を誘導したと云うべきである。メダルト・ボスは性的倒錯者に関する現存在分析を通じて、倒錯行為はむしろ、現存在に対する不全を補完し、実存の充足を志向するための試みとしてあることを示した。
20世紀中葉に発表されたキンゼイの報告書は画期的であり、また社会的な衝撃を与えた。それは、他者志向的な近代大衆社会にあって、プロテスタント的倫理より恣意的に規定されていた性的嗜好の異常と正常が、実際の調査によって、現実の個々人の性的生活と大きく懸隔することが明らかにされた為である。シェアー・ハイト(en:Shere Hite)の報告もまた、そのような正常と異常をめぐるノルムが一種の仮想的な装置に過ぎないことを実証した。
[編集] 性における健康
性的嗜好における正常と異常の区別は、特定の道徳的または宗教的な規範や人間観に基づく文化的な創作であると言える。しかし、正常・異常の基準とは別に、個人やカップル、集団や社会にとっての性的行動の「健康」と「不健康」という基準は存在し得る。
サディズムとかマゾヒズムは異常な性的嗜好ではなく、自分自身に対するマゾヒズム行為も異常ではない。しかしそれが限度を上回り、当人の健康を損ない、更に生命にまで危険を及ぼす場合は、異常という観点からではなく、健康な性別という観点からして逸脱だとせざるを得ない。あるいは拒否する相手にサディスティックな行為を強制することは、暴行であり傷害行為に他ならない。
新フロイト派のエーリッヒ・フロムは、サド・マゾヒズムやBDSM、ネクロフィリア(死体愛好症)が、人間における悪と密接に関係していることを論じたが、今日的には、必ずしもそれらが一つの同じ基盤にあるとは言えない。とはいえ、人間の死体などに性的嗜好を覚えることは、その程度にもよるが、心理的な健康が崩れていると言える。
[編集] 性的嗜好の類型
性的嗜好は、人間のあらゆる行動や行為が多様で、個人ごとで様々な好みや傾向性を持つのと同様に、あまりにも多様で、本来類型化など不可能である。何故ある特徴、ある行為、ある状況に魅惑されるのか、その原因と想定されるものが、非常に多様多彩であることも考えれば、類型を想定することに無理があるとも言える。
しかし、それでもある種の性的嗜好は、その原因に関する説明理論から類型が立てられ、また社会道徳的に「異常」と通説されるものは、その行為や嗜好の特異性あるいは外見の特徴から類型が立てられている。異常とされる類型は、精神医学的に、健全な心理の所産とは考えがたいものは性的倒錯の類型となり、世俗道徳的な偏見における類型は、変態性欲の類型になる。
- 性的フェティシズム:相手の身体の一部、衣服・装身具などへの好み・拘り。
- 乳房へのフェティシズム:バストへの拘りで、巨乳や貧乳への好みがある。
- 脚へのフェティシズム:女性の脚の美しさへの拘り。脚フェチ、脚線美など。
- 靴へのフェティシズム:ハイヒールなどへの性的嗜好。靴フェチ、ブーツフェチなど。
- 手へのフェティシズム、指へのフェティシズム:男性の手や指への拘り。主に女性側からのフェティシズム。
- 毛皮へのフェティシズム:毛皮を着た女性への好み。毛皮自体への嗜好。
- 革(レザー)への嗜好:レザーの滑らかな光沢や引き締まりへの性的嗜好。
- ラバー(ゴム)への嗜好:ラバーフェチなど、身体にぴったり密着するゴムの衣装などへの嗜好。
- 下着へのフェティシズム:女性のパンティ、ブラジャーなどへの拘り。
- 服飾フェティシズム:異性装など、男性が女装すること、女性が男装することなど。
- 窃視症:他者の性的行為などを覗き見する性的嗜好。
- 露出症:自分の裸体・性器等を他者や公衆の前に示して性的興奮等を得る嗜好。
- ペドフィリア(小児性愛):幼児童に対し性的魅惑を覚える性的嗜好。
- 少年愛 (性嗜好):思春期の少年に対し性的な魅惑を感じる嗜好。12歳以下だとペドフィリアと重なる。
- 少女愛:思春期の少女に対し性的な魅惑を感じる嗜好。12歳以下だとペドフィリアと重なる
- エフェボフィリア:思春期から青年期の男女に対する性的嗜好。性嗜好の少年愛や少女愛と重なる面がある。
- 老人性愛:老人に対し、性的魅惑を覚える性的嗜好。
- 動物性愛:ヒツジ、ウマ、イヌ、ネコなどの動物に性的魅惑を抱く。獣姦ともなる(牧畜社会などでは、独身の男性がヒツジなどを性的対象とすることは珍しいことではなかった)。
- サディズム:相手に対し性的な屈辱等を与える嗜好。
- マゾヒズム:相手から、または自分自身で性的な屈辱等を受ける嗜好。
- 母乳に対する嗜好:相手の授乳を見たり、母乳を身体に受けたり、母乳を飲むことが快楽である嗜好。
- 尿に対する嗜好:相手の排尿を見たり、尿を身体に受けたり、尿を飲むことが快楽である嗜好。
- 糞便嗜好:糞便を食べることで性的興奮を得る者や、手などで弄ぶことで興奮する場合など。
- 死体愛好(ネクロフィリア):死体に対し性的魅惑を感じる嗜好。死姦なども含む。
[編集] 精神疾患としての嗜好
国連の WHO が定めている精神疾患に関する分類 ICD で、精神障害(mental disorder)として記載されている性的嗜好があり、あるいは米国における APA が定める DSM においても、ある種の性的嗜好は、精神疾患として記載されている。ただし、それは精神障害の名称に、特定の性的嗜好の類型名が使われているので、例えば、フェティシズムやマゾヒズムの性的嗜好を持つ人が、即ち、精神障害という意味ではない。
- ICD においては、「F65 性嗜好の障害」として、Paraphilia(性的倒錯)を含む、次のような性的嗜好が、障害とされる:
- 1 フェティシズム、2 フェティシズム的服装倒錯症、3 露出症、4 窃視症、5 小児性愛、6 サディズム、7 サドマゾヒズム、8 マゾヒズム、9 性嗜好の多重障害、10 屍体性愛、11 獣愛、12 接触性愛、13 性的逸脱、14 性的倒錯、15 性的偏倚、16 性嗜好の障害
- 1 露出症、2 フェティシズム、3 接触性愛、4 小児性愛、5 性的マゾヒズム、6 性的サディズム、7 服飾倒錯的フェティシズム、8 窃視症、9 その他の性的倒錯
上述の性的嗜好を持つ人が性的倒錯であり、精神障害を持つ人ということではない。精神疾患における「性嗜好」に関係する診断類型に、特定の性的嗜好の名が付けられている。これらの性的嗜好を持つ人の嗜好が、極端化すると精神障害になるのかというと、そうではない。精神の障害が、何かの性的嗜好の形で表現されるというのが寧ろ妥当である。子供に性的魅惑を感じる人は小児性愛の嗜好者であるが、必ずしも精神疾患としての小児性愛者ではない。
[編集] 関連項目
[編集] 参考書籍
- メダルト・ボス 『性的倒錯-恋愛の精神病理学』 みすず書房
- エーリッヒ・フロム 『悪について』 紀伊國屋書店
- エーリッヒ・フロム 『正気の社会』 中央公論社