敦賀藩
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敦賀藩(つるがはん)は越前国敦賀郡(現在の福井県敦賀市)を支配した藩。別名を鞠山藩(まりやまはん)と言う。
敦賀藩は前期敦賀藩・後期敦賀藩の二つに分かれていると言って良い。前期の藩主家は結城秀康、松平忠直の越前松平家。後期は小浜藩の第2代藩主・酒井忠直が死に臨んで次男・酒井忠稠に1万石を分与していたことから始まった小浜藩の支藩である。
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[編集] 前期敦賀藩
戦国時代、越前は織田信長配下の勇将・柴田勝家が治めていた。信長の死後、勝家は羽柴秀吉と争って敗れて自害し、越前敦賀5万石は信長から秀吉の家臣となっていた蜂屋頼隆に与えられた。天正17年(1589年)に頼隆は病死。彼には嗣子が無く、蜂屋氏は無嗣断絶となった。
代わって秀吉の近臣・大谷吉継が敦賀に同じく5万石で入部する。吉継は敦賀城の拡張工事などに尽力したが、彼は奉行として朝鮮出兵の後方担当役を務めることが多かったため、あまり敦賀に関する彼の治績は見られない。そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、吉継は西軍に与して奮戦したが、小早川秀秋の寝返りに遭って大谷軍は壊滅し、吉継自身も自害を余儀なくされ、大谷氏は滅んだ。
関ヶ原後は徳川家康の次男・結城秀康が68万石で越前北庄に入る。秀康はこのとき、敦賀城には城代を設置した。そして秀康死後に後を継いだ松平忠直の時代である元和元年(1615年)の一国一城令で、敦賀城は破却され、敦賀藩も事実上、廃藩となったのである。
[編集] 後期敦賀藩
後期敦賀藩は天和2年(1682年)、小浜藩の第2代藩主・酒井忠直の次男・忠稠が父の遺言に基づいて敦賀郡・高島郡内に1万石を分与されたことから始まる小浜藩の支藩である。陣屋は貞享4年(1687年)春、赤崎の塩込を鞠山と改称して設置した。このため、この藩は鞠山藩とも呼ばれている。
しかし歴代藩主は江戸定府が常であり、領国の支配は本家の小浜藩が担っていた。そのため、陣屋を実際に利用していたのは、小数の役人のみであったと言われている。しかし第4代藩主・酒井忠香時代の宝暦9年(1759年)、敦賀藩は本家小浜藩の支配から独立した藩となり、ここに敦賀酒井氏による直接支配が始まった。
しかし藩では財政難が相次いだ。このため第7代藩主・酒井忠毗時代の安政6年(1859年)10月、再び本家小浜藩に所領を返還しようとする動きがあったが、領民が猛反対したために中止せざるを得なくなった。ちなみに忠毗は若年寄を務めた功績により文久元年(1861年)9月に1080石を加増され、翌年6月には城主格を与えられるに至った。しかしこのため、藩主による参勤交代の義務も生じてしまい、さらに財政難に拍車がかかった。
戊辰戦争においては本家小浜藩と共に新政府側に与して北陸道鎮撫使の先鋒役を務めた。明治3年(1870年)3月、敦賀藩は藩名を正式に鞠山藩と改称し、同年9月にその所領は本家小浜藩に合併された。そして翌年の廃藩置県で完全に廃藩となり、その所領は小浜県・敦賀県・滋賀県を経た明治14年(1881年)2月、福井県に編入されたのである。
ちなみに歴代藩主の多くが、大番頭や奏者番、寺社奉行、若年寄、大坂城番などの幕府要職を務めるなど、小藩ながらその存在は大きく見られていた。
[編集] 歴代藩主
[編集] 蜂屋(はちや)家
- 蜂屋頼隆(よりたか)
[編集] 大谷(おおたに)家
- 大谷吉継(よしつぐ)
[編集] 松平(越前)(まつだいら(えちぜん))家
[編集] 酒井(さかい)家
- 酒井忠稠(ただしげ)従五位下。右京亮。
- 酒井忠菊(ただぎく)従五位下。飛騨守。
- 酒井忠武(ただたけ)従五位下。右京亮。
- 酒井忠香(ただか)従五位下。飛騨守。
- 酒井忠言(ただのぶ)従五位下。相模守。
- 酒井忠藎(ただえ)従五位下。飛騨守。<えは草冠+盡>
- 酒井忠毗(ただます)従五位下。右京亮。<ますは田+比>
- 酒井忠経(ただつね)従五位下。右京亮。