日本の仏教
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基本教義 |
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縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
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部派・宗派 |
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日本の仏教(にほんのぶっきょう)
目次 |
[編集] 系譜
現在、日本の仏教における一定の伝統を有する伝統宗教の系譜である。
- 華厳宗系
- 律宗系
- 曹洞宗系
- 臨済宗系
- 黄檗宗系
- 融通念仏宗系
- 時宗系
- 真言宗系
[編集] 歴史
[編集] 飛鳥時代
日本書紀によると、日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代、欽明十三年(552年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。しかし、現在では上宮聖徳法王帝説(聖徳太子の伝記)や元興寺伽藍縁起(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)を根拠に宣化三年538年に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている。又、仏教が日本に入る際に、次のような騒ぎが起こったと日本書紀に書かれている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子ら(旧来の宗教勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目(渡来系)は「西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか」として、仏教に帰依したい言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病がはやると、尾輿らは「外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ」として、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。その後、仏教の可否をめぐる争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋と蘇我馬子)の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者をめぐる争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは聖徳太子が馬子側に参戦していた。聖徳太子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺(大阪市天王寺区)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を立てて三宝を広める事を誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。聖徳太子は法華経・維摩経・勝鬘経の三つの経の解説書(三経義疏)を書き、十七条憲法の二条に、「篤く三宝(仏法僧)を敬え」と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、天皇家自ら寺を建てるようになった。 天武天皇は大官大寺(後の大安寺)を建て、持統天皇は薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。
[編集] 奈良時代
南都六宗と呼ばれた、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗などが大勢を極めた。又、聖武天皇は位を孝謙天皇にゆずり、出家した。聖武は妻の光明皇后の影響から信仰に厚く、国分寺、国分尼寺の建造を命じ、大和の国分寺である東大寺に大仏を建造をした。 出家した聖武上皇は三宝の奴とまで称した。仏教が定着するにつれて、実は日本の神々も仏が化身として現れた「権現」であるという考え本地垂迹説が起こり、様々の神の本地(仏)が定められ、神像が僧侶の形で制作される事があった。しかし、仏法が盛んになってくると、今度は戒律などを無視する僧などが増えたりしたため、聖武天皇の時代に鑑真が招かれた。鑑真は東大寺に戒壇を設け、僧侶に戒をさずけた。聖武天皇も鑑真から戒を授かった。鑑真は唐招提寺を建立し、そこに住んだ。
[編集] 平安時代
その後これら寺院群は政治に口を出すようになった。桓武天皇は、彼らの影響力を弱めるために平安京に遷都し、空海及び最澄を遣唐使とともに中国に送り出し、密教を学ばせた。新しい仏教をもって、奈良の旧仏教に対抗させようとしたのである。最澄(天台宗)、空海(真言宗)には、それぞれ比叡山と高野山を与えて寺を開かせ、密教を広めさせた。中国では、仏教の出家が「家」の秩序を破壊するなど、儒教論理に合わないとされ迫害されたのに対し、日本では「鎮護国家」の発想の下、官僚組織の一員とまで化したのは興味深い事だと言える(僧正・僧都などは律令制で定められた僧官)。平安時代中期は釈迦入滅の二千年後にあたる。正法の千年・像法の千年の後、仏教が滅びる暗黒時代、すなわち末法の世が始まったと考えられた。末法の世にはどんなに努力しても誰も悟りを得る事が出来ない。国が衰え人々の心も荒み、現世での幸福も期待出来ない。このような人々の状況から、ひたすら来世の幸せを願う浄土信仰が流行した。貴族も阿弥陀仏にすがり、極楽浄土に迎えられる事を願って来迎図などを盛んに描かせ、その究極として宇治の地に平等院を建立した。その鳳凰堂の姿形は、正に極楽の阿弥陀仏の宮殿(くうでん)を模したものである。
[編集] 鎌倉時代
鎌倉時代に入ると、前時代末期からの動乱で仏教にも変革が起きた。それまでは国家や貴族、研究のためのものだった仏教が、民衆のためのものとなっていったのである。主として叡山で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られ、新しい宗派が作られていった。これらの宗派では、それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれている。これらの中には、「南無妙法蓮華経」と唱える事で救われるとする日蓮宗、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ける(称名念仏)事で救われるとする浄土宗、浄土宗からさらに踏み込んで「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや(善人でさえ往生出来るのだから、悪人が往生出来るのはいうまでもない事だ)」という悪人正機の教えを説いた浄土真宗(一向宗)、踊りながら念仏を唱える融通念仏や時宗があった。このように鎌倉時代には乱立ともいえるほど新しい宗派が誕生した。これらの宗派は、定着するまで例外なく既存の宗派に弾劾されたが、同時に旧宗派の革新も引き起こした。弾劾の中でも日蓮宗の日蓮は過激な事で知られ、他宗を非難し御題目を唱えなければ国が滅ぶと言い、幕府に強く弾圧された。しかし、民衆に浸透し一般化すると、この弾圧も次第に沈静化していった。 鎌倉時代は、武士が貴族から権力を奪い、力を着々とつけていた時代でもあった。この時代には臨済宗と曹洞宗という二つの禅宗が、あいついで中国からもたらされた。力をつけつつあった武士に好まれた事から、鎌倉などに多くの禅寺が建てられ、大いに栄えた。この代表的なものを鎌倉五山という。又、虎関師錬が仏教史書である『元亨釈書』を著した。
[編集] 南北朝-室町時代
1333年に鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代から室町時代には政治的中心地は京都に移る。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、五山は鎌倉から京都本位に改められ、京都五山が成立する。足利尊氏が京都に武家政権を成立させると、以前から武士に人気のあった禅宗の五山が定められ、臨済宗は幕府に保護される。室町時代の初期には南禅寺などの禅宗と旧仏教勢力の延暦寺などの天台宗は対立し、初期の幕府において政治問題にもなる。又、尊氏の天龍寺船の派遣に協力した夢窓疎石や弟子の春屋妙葩は政治的にも影響力を持ち、彼らの弟子僧が3代将軍の足利義満時代に中国の明朝と日明貿易(勘合貿易)を開始する際には外交顧問にもなる。このような武家と仏教界の接近は貴族文化および武士文化の影響を及ぼし義満の時代の鹿苑寺(金閣寺)など北山文化や足利義政時代の慈照寺(銀閣寺)など東山文化に融合の後をみる事が出来る。室町時代の文化には仏教に影響された水墨画・書院造・茶の湯・生け花・枯山水の庭園など、後世に残る多くの作品が生まれた。 曹洞宗は地方や庶民の間で影響力を持った。京都の都市商工業者の間では日蓮宗が普及した。ちなみに、この時代の布教者としては浄土真宗の蓮如や日蓮宗の日親などが有名である。後に浄土真宗の蓮如が叡山などの妨害を乗り越えて再興し、作り上げた本願寺教団は、門徒と呼ばれる強大な信徒集団を獲得し、応仁の乱後守護大名に取って代わった戦国大名に匹敵するほどにまでなった。又、一向宗とも呼ばれるように、彼らは信仰の下に団結していて、旧来の守護大名の勢力を逼迫していった。中でも、加賀国一揆や山城国一揆等の一向一揆が有名で、数々の守護大名を圧して自治権(主に徴税権と裁判権)の拡大を行った。そのため、支配を拡げようとする戦国大名はこれらの勢力と妥協するか対立するか選択を迫られ、多くが妥協の道をとった。しかし、織田信長などは徹底的に弾圧したため、大阪本願寺が落とされて以降、沈静した。又、織田信長は日蓮宗の僧と浄土宗の僧と宗論(安土宗論)させ、浄土宗に軍配を上げた話も有名である。この宗論は日蓮宗が他宗と対立する事を抑えようとして、浄土宗に有利な裁定を下したとされている。一向宗の勢力が強かった三河でも、若き日の徳川家康が弾圧を行い、家中が二分する争乱となっている。諸国の一向一揆の中でも特に伊勢長島の願証寺は織田信長に頑強に抵抗し、後に織田信長から大虐殺を受け壊滅した。諸国の一向門徒の総本山であった石山本願寺は、さながら戦国大名家のような強固な組織となったが、顕如の時代に織田信長と対立、「石山合戦」と呼ばれる前後十年(途中の休戦を挟む)に及ぶ泥沼の戦争を経て、石山から退去した。織田信長が石山の地に天下を支配する城を築こうとしていたためと言われ、本能寺の変における織田信長の死後、豊臣秀吉が遺志を継いで大坂城を建設している。顕如の子の代に浄土真宗は兄・教如と弟・准如が東西本願寺派として分裂したが、これは徳川家康が本願寺勢力の再起を嫌って故意に分裂させるための政策だったと言われる。
[編集] 安土桃山時代
豊臣秀吉は石山本願寺跡に大坂城を建てたが、彼は基本的に寺院勢力との仲を良好にしようとした。中でも寺院の被害が激しかった大和には弟豊臣秀長を派遣し、円満にまとめ上げた。
[編集] 江戸時代
豊臣秀吉の死後に権勢を掌握した徳川家康は、寺社奉行を置き、仏教を取り締まった。又、人々には必ずいずれかの寺院に登録させるようにした(寺請制度)。そのため、今日にいたる葬儀を取り仕切る主宰教としての地位を確立した。1654年に来日した明の隠元は黄檗宗を布教する。当時最大の仏教勢力であった浄土真宗に対しては、お家争いにつけ込んで東西に分裂させ、結果的に勢力を弱体化させることもした。
[編集] 明治時代
江戸時代後半より本居宣長を祖とする国学の延長により、明治維新が成し遂げられた。そのため、国学的な明治政権が旧長州藩出身者により形成された。そのため、大政奉還により、天皇に政権が返上されると、新政府の神道重視の政策の結果、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数が減少した。1871年(明治4年)に明治政府は太政官達を出し虚無僧が在籍する普化宗を廃止した。又、不受不施派やキリスト教の布教が解禁された。各宗派は仏教の近代化を推し進め、宗門大学の設立等の教育活動、社会福祉活動に進出した。
[編集] 大正時代
[編集] 昭和時代から現代
近代の政府は、神仏判然令以降、太政官布達や断片的な法令、行政上の通達によって宗教を管理してきたが、統一的な法典としては1939年(昭和14)の<宗教団体法>が最初であった。国家神道体制が確立する過程で神社は宗教ではないという事で公法上の営造物法人として扱われたが、仏教、教派神道、キリスト教の宗教団体は民法の公益法人を適用されないままであった。宗教に関する法律の必要性は政界においても認識されており、1899年(明治32)には第一次宗教法案が貴族院に提案されたが、否決された。1927年(昭和2)、1929年(昭和4)にも宗教法案が議会で提案されるが、審理未了に終わった。宗教団体法の制定によって、一般の宗教団体は初めて法人となり、キリスト教も初めて法的地位を得たが、監督・統制色が強い法律であった。
第二次世界大戦後、1945年(昭和20)12月28日に<宗教法人令>が制定・施行され、宗教団体への規制が撤廃された。1951年に宗教法人令が撤廃され、認証制を導入した<宗教法人法>が制定された。オウム真理教事件をきっかけにして1995年(平成7)には宗教法人法が一部改正された。