松野鶴平
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松野鶴平(まつの つるへい 明治16年(1883年)12月22日~昭和37年(1962年)10月18日)は大正・昭和期の政治家。衆議院議員、鉄道大臣、参議院議長(在任期間1956年11月13日~1959年5月2日、1959年6月23日~1962年8月6日)などを歴任。通称「ズル平」。自由民主党政調会長、総務会長などを務めた松野頼三は三男。民主党の衆議院議員松野頼久は孫にあたる。
明治16年(1883年)12月22日、熊本県鹿本郡城北村(現在の山鹿市菊鹿町)に生まれる。城北学館中退。地方政界を経て、大正9年(1920年)衆議院議員に立憲政友会から立候補し当選。以後、7期当選。政友会では鳩山一郎派に所属し、内務政務次官、政友会幹事長、米内光政内閣の鉄道大臣などを歴任した。昭和7年(1932年)2月22日の第18回衆議院議員総選挙では、政友会の選挙対策を取り仕切り、466議席中、304議席を獲得し「選挙の神様」の異名をとった。
戦後は、鳩山とともに旧政友会勢力を糾合し、日本自由党の結成に参加。総務となる。しかし、昭和21年(1946年)5月に鳩山が公職追放となったため、後継総裁をめぐり古島一雄、松平恒雄、外務大臣の吉田茂らの名前が取りざたされる中で、鳩山とともに吉田を訪問し、後継を打診するが最初拒否される。鳩山はあきらめたが、松野は、再度、吉田をかきくどき、「深夜塀を乗り越えて会いに行った」とまで言われる。金のことで迷惑をかけないなどの条件を吉田に約束し、吉田を首肯させた。松野自身も公職追放となったが、党務に弱い吉田首相の私的政治顧問として、吉田内閣を支えることになる。昭和27年(1952年)追放解除後は、参議院議員に当選する。政界の寝業師として、昭和27年の抜き打ち解散を吉田首相に進言したり、吉田派と鳩山派の政権抗争では仲介役を務めた。しかし、造船疑獄をきっかけに吉田体制が崩壊する中で、内閣不信任案をつきつけられ、解散総選挙を目ろむ吉田に対して「そんな総裁は除名してしまえ」と緒方竹虎とともに退陣へのきっかけを作った。昭和30年(1955年)の保守合同でもプロモーターとして活躍し、自由民主党に参加し初代の党参議院議員会長に就任。昭和31年(1956年)緒方竹虎の急死に伴い、2月後任の総裁代行委員となる。11月参議院議長に選出される。
戦後の参議院では、議事の遂行において公平を期すために議長在任中は党籍を離脱する慣例となっていた(松野以前の3人が所属していた緑風会は無所属議員のための会派であって身分的には無所属である)。だが、戦前の帝国議会で唯一の公選によって選ばれていた衆議院の議長(通常は第一党から選出)は、その党籍を維持してその権威によって議事運営を行う一方で、第一党の独断的な動きに対しては党員としての発言力によって阻止し続ける事によってその暴走を食い止めるという慣例が存在していた。旧政友会出身の松野は戦前以来の議長観を保持しており、他党の党籍離脱要求にも関わらず参議院議長在任中も自民党籍を維持した。日米安保条約改訂などで政局が流動的な情勢の中、松野は己の議長観に忠実に従うことによって自民党側の強引な議事運営を防止しつつ、円滑な審議に尽力して一定の成果を収めたが、それは同時に「参議院の政党化」を促進する事にも繋がった。
昭和37年(1962年)10月18日死去。従二位勲一等旭日桐花大綬章。