桂三木助 (4代目)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
4代目桂 三木助(かつら みきすけ、1957年3月29日 - 2001年1月3日)は、日本人の落語家。
本名は小林 盛夫(こばやし もりお)。5代目柳家小さんの本名と同姓同名であるが、父親の3代目三木助が、小さんと義兄弟の杯を交わすほどの大親友であったが故の命名。おかげで弟子入りした際、しばしば取り違えられるトラブルを起こした逸話がある。
[編集] 概要
3代目桂三木助の晩年に生まれた長男で幼少で父を亡くす。東京都出身。立教高等学校(現立教新座高等学校)、立教大学経済学部卒業。
小きん時代は都会的なセンスと容姿で注目された。寄席に外車で乗り付け、隣に女性をはべらせるという事で、春風亭小朝と共に次世代のホープとして注目される。また、俳優やテレビレポーターなどで活躍し、将来を嘱望された。三木助襲名後、演芸番組を除いては自然とテレビから遠ざかり落語に専念するようになる。
三木助は元来上方の名跡である事から、桂米朝にも幾つか噺を教わり精進を重ねた。この結果1997年(平成9年)には父とおなじく芸術祭で表彰される(演芸部門優秀賞)。また後年は春風亭小朝、林家こぶ平、春風亭昇太らとともに江戸落語の若手発掘・三木助自身らも含めた中堅世代のスキルアップのために数々の寄席・落語イベントで奔走、(三木助死後となったが)2005年頃からの江戸落語ブームの発火点となった。
さらなる将来が期待されていた2001年正月、自宅で首をつり、病院に救急搬送されたが助からなかった。死に際しかねてから「三木助」の名に重圧を感じており、うつ病にかかっていたなどの憶測が流れた。後日都内のホテルにてこぶ平ら親しかった落語家たちにより送る会『さよなら!ミッキー』が催された。
彼の死に際し公私両面で付き合いが深かった小朝は、「彼はご褒美(大師匠や先輩からの賛辞)をすぐ欲しがる世代だった」と語り、彼の死後に「三木助の噺は巧かった」と言った先輩落語家へ、「何で生きているときに誉めてやらなかったんだ!」と心ながらに憤っていたという。
[編集] 経歴
- 1977年4月 - 5代目柳家小さんに入門。前座名は「小太郎」。
- 1981年5月 - 二つ目昇進。「柳家小きん」を名乗る。
- 1985年9月 - 真打昇進、4代目桂三木助を襲名。
- 2001年1月3日 - 自殺。享年43。