田尻智
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田尻 智(たじり さとし、1965年8月28日 - )は株式会社ゲームフリークの代表取締役社長。ゲームクリエイターであり、『ポケットモンスター』(ポケモン)の生みの親でもある。ポケットモンスター(アドバンスジェネレーションやダイヤモンド&パールを含む)のアニメ・劇場版において、「原案(原「作」ではないので注意) 田尻智」のクレジットが必ず行われている。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 幼少期
東京都世田谷区に生まれた田尻智は、少年時代を町田市で過ごした。当時はまだ自然が残っていた町田市で、彼は野山や小川、時には防空壕跡や廃墟まで足を伸ばし、昆虫をはじめとした生き物の観察や採取を楽しんでいた。図鑑から知識を得ることだけに留まらず、収集や飼育に独自の工夫を凝らしていた彼は、クラスで一番の「昆虫博士」だった。この時の経験は、ポケットモンスターを作る上で大きな力となったと後に語っている。彼が最も好きなポケモンだと語るニョロモ・ニョロゾは、オタマジャクシがモチーフである。彼の「遊び場」においては身近な存在であったことが伺われる。
しかし彼が中学生になる頃には、町田市にも次第に開発の波が押し寄せるようになった。かつて駆け回った野原や小川も建物に姿を変え、大好きな虫たちはその姿を消していった。地元にゲームセンターが現れたものこの時期である。夢を失いかけていた矢先に、友人がスペースインベーダーの最後の残機を彼にプレイさせたのがターニングポイントであった。初体験のスコアは大したものではなかったが、それ以来テレビゲームの虜となる。当時はアンダーなイメージが漂っていたゲームセンターであったが、彼は夜な夜な足を運び、少ない小遣いをゲームにつぎ込んでいた。「ゲームセンターあらし」としてその名を馳せるのにも時間はかからなかった。
[編集] ゲームフリーク創刊
かつて昆虫に注いでいた観察眼は完全にゲームに向けられた。東京工業高等専門学校(国立東京高専)の在学中の1983年に、それまでの「研究成果」の集大成とも言えるゲーム攻略同人誌(ミニコミ誌)「ゲームフリーク」を一人で執筆する。それはコピー用紙をホチキス止めしただけのモノクロ小冊子に過ぎなかった。だが、当時はゲーム雑誌も攻略本も、今ほどには整っておらず、同人誌専門店に販売を委託した「創刊号」は、彼と同じような”ゲームフリーク”達の間で飛ぶように売れた。当時漫画家を目指していた杉森建も最初の読者の一人である。彼はすぐに田尻に手紙を送り、今に至る2人の友情が生まれた。杉森は次号以降のイラスト担当となった。その後も仲間は次第に増えていき、それに伴って「ゲームフリーク」の内容は充実していった。また、うる星あんず(大堀康祐)と中金直彦によるミニコミ界のベストセラー「ゼビウス 1000万点への解法」の再販依頼を受け、「ゲームフリーク」別冊として発行し、当時のミニコミ誌としては記録的な部数を達成している。
ゲーム雑誌を作る傍ら、様々なゲームのアイディアを考案し、各種メーカーが主催するコンテストに応募していた。参加賞に甘んじる事が多々ありながらも最優秀賞を得たが、そのゲームが発売される事はなかった。その事が「自分の手でゲームを作らなければ」と思うきっかけであったと彼は言う。
[編集] ライター活動とゲーム制作
高専卒業後は「ゲームフリーク」における実績や、種々のゲームコンテストで培ったコネクションを活かし、『ファミコン通信』(現『ファミ通』)・『ファミリーコンピュータMagazine』などでテレビゲーム情報関連のライターとして活躍する。ゲームに対する志の高さから読者の支持を集めながらも、社内の人間と相容れないケースも多かったようだ。
ゲームフリークの仲間と共に、初の本格的なゲーム開発となる『クインティ』の開発に着手したのもこの時期である。ファミコンソフトの開発機材を自作(本来はメーカーから提供されるのが原則である)することから始まり、意見の衝突や仲間の離散といった辛酸を舐めながらも完成。ハードウェアから自作したロムカセットを直接ナムコ(現在のバンダイナムコゲームス)に持ち込むという前代未聞の売り込みを行った(開発環境の調達からソフト開発までインディーズ形式で完遂し、かつ市販ソフトとして正規流通したファミコンソフトは本作が唯一の存在である)。
クインティは無事にナムコから発売され、20万本を超える売り上げとなった。当時としても悪くない数字である。それによって得られた約5000万円の印税を資本金として、株式会社ゲームフリークを正式に設立する。時は1989年、プロのゲームクリエイター「田尻智」の誕生である。
[編集] ポケットモンスター
意外な事に、『ポケットモンスター』製作も設立直後からスタートしている。種々の事情で開発の遅延や中断はあったものの、『ヨッシーのたまご』『パルスマン』などのゲーム製作で資金を集めながら『ポケットモンスター』の製作は続く(これについての経緯はゲーム開発の背景とヒットまでの経緯を参照のこと)。当初から6年以上が経過した1996年、ついに発売に漕ぎ着けた。やがて大人気を博し、巨万の富と名声を手に入れて現在に至る。
2006年現在に至るまで、株式会社ゲームフリークの代表取締役を継続しているが、『ポケットモンスター 赤・緑』(1996年2月27日、ゲームボーイ)以降はゲーム開発の現場からは一歩引いた状態。また、彼の父・田尻義雄も同社の役員である。
[編集] その他
アニメ版ポケモンの主人公の名前「サトシ」は、田尻智に由来している。これは先に出た『ポケットモンスター 赤』の時の主人公のデフォルト名のひとつがサトシだったからと言えよう。
『TIME』のインタビューで田尻智が「サトシ」は子供時代の自分自身の分身だと答えている。
また、アニメにも登場する『ポケットモンスター 緑』のデフォルト名の「シゲル」は、田尻智が尊敬する宮本茂であり、「サトシ」の師やライバルとして常に少し先を行っており、決して追いつくことはないとも答えている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『ゲームフリーク 遊びの世界標準を塗り替えるクリエイティブ集団』 ISBN 4840101183
- 「ゲームフリーク」創刊号も収録されている
- 『田尻智 ポケモンを創った男』 ISBN 4872338332