原健三郎
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原 健三郎(はら けんざぶろう、明治40年(1907年)2月6日 ‐ 平成16年(2004年)11月6日)は、昭和・平成期における日本の政治家。
衆議院議員(20期)。衆議院議長(第65代)。労働大臣(第30代・第32代)。国土庁長官(第9代)。北海道開発庁長官(第45代)を歴任。
[編集] 概要
議長在任期間・1986年7月22日 - 1989年6月2日。従二位勲一等旭日桐花大綬章(1996年)。「ハラケン」の愛称で親しまれた。
兵庫県津名郡北淡町(現・淡路市)に生まれる。洲本中学校を経て1931年(昭和6年)早稲田大学政経学部卒業後、アメリカのオレゴン大学に留学。講談社にて雑誌「現代」の編集長を務めたのち、1946年(昭和21年)4月に戦後初の総選挙で初当選し、政界入りした。
衆議院副議長、労働大臣2回、国土庁・北海道開発庁長官などを歴任し、1986年(昭和61年)7月の第106特別国会で「自民300議席」という絶対多数のもと第65代衆議院議長に就任する。大型間接税(売上税・消費税)導入をめぐる税制改正問題に加えて1988年(昭和63年)に発覚したリクルート問題など厳しい国会運営を強いられる中、第113臨時国会(「税制国会」)での消費税導入を含む税制改革関連6法の成立に尽力した。しかし、1989年(平成元年)の第114通常国会における予算案の強行採決をめぐる混乱により、与野党から辞任要求を突きつけられ、この圧力に1カ月余りも抵抗したのち、6月に辞任。予算案は憲政史上初めて自由民主党により単独採決となった。
「生涯現役」を口癖とし、1996年(平成8年)には尾崎行雄、三木武夫に続いて史上3人目となる議員在職50年の永年在職議員特別表彰を受けた。この特別表彰では「名誉議員」の称号とともに衆院玄関に胸像が飾られるという栄誉が与えられるため、原は選挙において臆面もなく「銅像を建てさせてほしい」と訴え、政界では暗黙の了解で「スゴロクの上がり」のポストとされる議長を務めたあとも議員の座にこだわり続けた。このことから、国会内に銅像を建てることのみに汲々としているとも揶揄された。だが、銅像を建てるという夢は財政難などから野党の同意を得られず、念願を果たすことはなかった。また原は選挙戦で必ず土下座をする事でも有名で、最後の選挙となった1996年(平成8年)10月の第41回衆議院議員総選挙でも妻と共に土下座を各地で繰り返した。しかし、小選挙区(兵庫9区)では落選し、比例復活で辛うじて20回連続の当選を果たした。こうして2000年(平成12年)の衆議院解散を機に20期54年にわたる議員生活に別れを告げ、93歳という衆院歴代第2位(1位は尾崎行雄)の高齢で政界を引退した。
明石海峡大橋の建設にも強い執念を燃やした。架橋が夢物語だと思われていたころには「ハラケン」をもじって「ハシケン」「ホラケン」などとも揶揄されたが、最終的にこれを実現へと導いた。国会に銅像を立てる念願こそ果たせなかったが、明石海峡大橋のたもとにはこの功績を称える銅像が立てられている。日活映画「渡り鳥シリーズ」のシナリオを書くなど異才も発揮した。
2004年(平成16年)11月6日午前1時52分、心不全のため東京都渋谷区の病院で死去した。97歳だった。
[編集] 作品
- 1959年(昭和34年) ギターを持った渡り鳥(脚本)
- 1960年(昭和35年) 渡り鳥いつまた帰る(原作)
- 1960年(昭和35年) 若い突風(原作)
- 1960年(昭和35年) 南海の狼火(のろし)(原作)
- 1960年(昭和35年) 大草原の渡り鳥(原作)
- 1960年(昭和35年) くたばれ愚連隊(原作)
- 1960年(昭和35年) 大暴れ風来坊(原作)
- 1960年(昭和35年) 海を渡る波止場の風(原作)
- 1960年(昭和35年) 海から来た流れ者(原作)
- 1960年(昭和35年) 赤い夕陽の渡り鳥(原作)
- 1961年(昭和36年) 波濤を越える渡り鳥(原作)
- 1961年(昭和36年) 東京騎士隊(ナイツ)(原作)
[編集] 関連文献
- 2001年(平成13年) ハラケン「生涯現役」 元衆議院議長・原健三郎 人生聞き語り(神戸新聞東京支社・編)