稲垣浩
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稲垣 浩(いながき ひろし、1905年12月30日 - 1980年5月21日)は、昭和期の映画監督。日本映画の基礎を作った名監督の一人である。
東京本郷区駒込千駄木町(現・文京区千駄木1丁目)に、小芝居小屋の俳優の息子として生まれる。
生活を助けるため、小学校をやめ、新派劇の名優だった高田実に弟子入りし、「東明浩」の芸名で子役を務める。一時期、関西に移り「天活」の「連鎖劇」に出演し、映画に興味を持つ。
その後、東京に戻り、父と一緒に舞台に立っていたが、1922年、父の旧友で日活向島撮影所の幹部俳優だった山本嘉一に招かれて、俳優として日活に入社する。村田実監督の教えを受け、伊藤大輔と知り合う。
俳優として行き詰まり、監督を目指して衣笠貞之助の「衣笠映画連盟」に参加し、1928年衣笠監督の『十字路』のチーフ助監督を務める。その後、伊藤大輔の紹介で、片岡千恵蔵プロダクションに入り、同年、『天下太平記』をはじめ、片岡千恵蔵の個性に合った「明るく楽しい時代劇」を次々と発表し、好評を博した。1934年、山中貞雄、滝沢英輔、三村伸太郎、八尋不二らと会社の枠を超えたシナリオ執筆集団「鳴滝組」を結成し、片岡千恵蔵や阪東妻三郎らの作品を精力的に発表した。
戦後は、東京に移り、主に東宝で三船敏郎などの大作を主に撮った。
1955年、『宮本武蔵』で「アカデミー賞外国語映画賞」受賞し、1958年、自身が阪東妻三郎主演でとった作品のリメイク作、三船敏郎主演の『無法松の一生』で「ベネチア国際映画祭金獅子賞」を受賞するなど、海外でも評価が高い。
[編集] 代表作
- 天下太平記(1928年)
- 放浪三昧(1928年)
- 瞼の母(1931年)
- 一本刀土俵入り(1931年)
- 弥太郎笠(1932年)
- 時代の寵児(1932年)
- 富士の白雪(1935年)
- 関の弥太ッぺ(1935年)
- 大菩薩峠(1935年)
- 出世太閤記(1938年)
- 地獄の虫(1938年)
- 尊王村塾(1939年)
- 宮本武蔵(1940年)
- 無法松の一生(1943年)
- 手をつなぐ子等(1948年)
- 忘れられた子等(1949年)
- 宮本武蔵(1954年)
- 柳生武芸帳(1957年)
- 無法松の一生(1957年)
- 日本誕生(1959年)
- ふんどし医者(1960年)
- 忠臣蔵・花の巻・雪の巻(1962年)
- 佐々木小次郎(1967年)
- 風林火山(1969年)
- 待ち伏せ(1970年)