荒尾氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
荒尾氏(あらおし)は日本の氏族の一つ。代表的なものは次の3つ
目次 |
[編集] 歴史
現存する文書(注)から、鎌倉幕府の御家人としての荒尾氏が、南北朝期に荒尾郷および尾張国中島郡にその諸領をもっていたことが推定されている。この一族が高階氏を名乗っていたのに対し、戦国期に知多郡の木田城を本拠とした荒尾空善、その娘婿荒尾善次に始まる荒尾家は、後に在原氏を称した(実際には土豪だったのであろう)。寛政呈譜には「先祖より代々知多郡の荒尾村に住せしより屋号とす」とある
- 注 荒尾宗顕書状(嘉暦2・1327年の土地譲渡書など。妙興寺文書として愛知県一宮市博物館で収蔵)およびその子、荒尾泰隆の寄進状(応安5・1372年。京都・大徳寺文書)など。「東海市史」通史編(1990年)144項から146項。
末裔に鳥取藩主池田家に仕えた家老家があり、1つは但馬守成房を祖とし、米子城城代を務めた家(荒尾但馬家、米子荒尾家)、1つはその弟志摩守隆重を祖とし、元和一国一城令で廃城となった倉吉城(打吹城)下に陣屋を構えてこの地を領した家(荒尾志摩家、倉吉荒尾家)である。
鳥取・岡山二つの大藩は共に池田輝政を祖にもつが、その輝政の母(善応院)は荒尾善次の娘である。善次の子成房を父にもつ鳥取藩家老「成利(荒尾但馬)」「山就(嵩就。荒尾志摩。叔父志摩守隆重の養子となる)」は輝政の従兄弟にあたる。それゆえ鳥取藩代々の藩主は両荒尾家に、その所領支配に関して全権を委任し、幕末に至る200年以上の間、米子と倉吉の地は、荒尾家によって統治された(成利が米子城代となったのは寛永9・1632年である)。
鳥取県米子市のJR博労町駅を降りて左側の坂道をのぼると荒尾但馬家一族の菩提寺黄檗宗「了春寺」(同市博労町)がある。荒尾氏の墓碑群のなかに異質の新しい墓碑が目立っている。男爵荒尾之茂と縁組した冷泉家22代当主冷泉為系の長女須賀子の墓である。墓所の前には2人が読んだ歌碑が建っている。
- ゆめかとも思う許りに故郷の 天守のあとに交す盃 之茂
- 天主台のほりてみれはきりはれて なみちはるかに隠岐のしまみゆ 須賀子
なお荒尾志摩家の墓所は倉吉市仲ノ町、打吹山の西中腹にあり、ふもとにはその菩提寺曹洞宗「満正寺」(同鍛冶町1丁目2948)がある。
[編集] 荒尾但馬家(米子荒尾家。米子城代)歴代当主
- 0 成房(荒尾善次の子。但馬守)
- 1 成利(米子城代初代)
- 成直(米子2代)
- 成紹(分家)
- 2 成直
- 3 成重
- 4 成倫
- 5 成昭
- 6 成昌
- 7 成煕(分家2代成庸の二男。)成紹の孫。
- 成尚(米子8代)
- 成緒(米子9代)
- 成孝
- 8 成尚
- 9 成緒
- 10 成裕(成孝の子)
- 11 成富
廃藩後の当主は成富の子成文、成文の子之茂(男爵)である。 新修「米子市史」第2巻(2004年)82項による。
[編集] 荒尾志摩家(倉吉荒尾家)歴代当主
- 0 隆重(志摩守。荒尾善次の子で、成房の兄弟)
- 1 山就(嵩就。倉吉初代)
- 宣就(倉吉2代)
- 重就‐勝就(4代)‐仙就(勝就の弟)‐甫就(5代)‐斯就(6代)‐幸就(長山百助の伯父)‐昌就‐本就‐恒就
- 秀就(倉吉3代)
- 2 宣就
- 3 秀就
- 4 勝就(旗本松平隆欽の二男)
- 5 甫就(永井尚附の子)
- 6 斯就(佐々長元の二男)
- 7 厚就
- 8 為就
- 隆就
- 世就
- 9 世就
- 10 直就(隆就の子)
廃藩後の当主は光就(恒就の子)、光就の子嘉就(男爵)である。新編「倉吉市史」第2巻(1995年)229項による。男子は養子が入っているが、女系による相続だろうか。
[編集] 外部リンク
- 西美濃の武将の系譜
- 愛知のお城 荒尾空善、荒尾善次らが拠ったとされる木田城趾。
- 国史跡米子城跡「米子市ホームページ」
- 米子城にまつわる史跡「米子市ホームページ」 「了春寺」の米子荒尾家墓所
- 幸田屋の城巡り 倉吉陣屋 陣屋跡、倉吉の町並と倉吉荒尾家墓所。
- 鳥取県立博物館 資料データベース 鳥取藩政資料 米子城絵図[1]および倉吉陣屋絵図[2]