覚山尼
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覚山尼(かくさんに、1252年(建長4年) - 1306年11月15日(徳治元年10月9日))は、鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗の正室。父は鎌倉幕府の有力御家人・安達義景、母は北条時房の娘。兄(養父)に安達泰盛)の養子となる。堀内殿、松岡殿、覚山志道、潮音院殿。
[編集] 略歴
父の義景が出生の翌年に死去したため、20歳以上離れた異母兄の泰盛に養育された。鎌倉甘縄の安達邸で育ち、1261年に、泰盛の養女として北条得宗家の嫡流時宗に嫁ぎ、安達氏と得宗家の縁を結ぶ。夫婦仲は、時宗の帰依した無学祖元の証言などから仲睦まかったとされ、文永8年(1271年)12月には嫡男・北条貞時を出産。日蓮の回想によれば、時宗は嫡子誕生の喜びから日蓮を恩赦して死一等を減じ、流罪に減罪したと言われる。また、時宗の影響で禅も行っている。建治3年(1277年)には流産をしている。
1284年4月、病床にあった時宗は無学祖元を祖に西明寺で出家し、共に出家している。時宗は34歳で死去し、時宗の死後は息子の貞時が執権に就任、兄の安達泰盛が幕政を主導。晩年は仏事につとめ、遠江国笠原荘を領する。1285年には、内管領の平頼綱の讒言を信じた執権貞時が、安達泰盛をはじめとする安達氏一族を誅殺する(霜月騒動)。同年には貞時の承認を得て鎌倉松ヶ岡に東慶寺を建立。さらに夫の暴力などに苦しむ女性を救済する政策を行なったと言われ、直接史料は無いが、これがもとで東慶寺は縁切寺、もしくは駆け込み寺となったと言われている。55歳で死去。