那須氏
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那須氏(なすし)は下野国那須郡発祥。藤原北家長家流とされる。
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[編集] 概要
藤原道長の六男・藤原長家の孫藤原資家を祖とし、元は須藤氏を称していたが、那須資隆(太郎)の時、那須氏を称したとされる。一般には屋島の戦いで扇の的を射落とした那須与一で知られるが、吾妻鏡によって明確に存在が確認されるのは鎌倉時代初期の那須光資からであり、与一の存在も含めそれ以前の系図や事跡、伝承には疑わしい部分も多い。
鎌倉幕府成立後は御家人となり、室町時代には最盛期を迎え、結城氏や佐竹氏と並んで、『関東八屋形』のひとつに数えられた。しかし15世紀前半に上那須家と下那須家の二つに分裂して衰退。永正11年(1514年)、上那須家が内紛により滅亡し、下那須家の那須資房が那須氏を統一するが、その後は宇都宮氏や佐竹氏との抗争に明け暮れる。天正18年(1590年)、那須資晴が豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため所領を没収されたが家臣・大田原晴清の陳謝で資晴の子・那須資景に五千石を宛がわれ、かろうじて改易は免れた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、江戸時代には下野那須藩一万四千石の大名となる。三代藩主那須資祗の時、二万石に加増され同国烏山藩に転封。しかしその養子那須資徳がお家騒動(幕法違反)により改易され、以後千石の交代寄合として明治維新まで存続した。なお、この那須氏の末裔(直系に当たる)が昭和初期に起きた弘前事件の被告人となったが、裁判により冤罪が立証されている。
[編集] 一族
須藤家
- 須藤貞信(藤原資家、那須氏の祖)
- 須藤資通
- 須藤資満
- 須藤資清
- 須藤資房
- 須藤宗資
那須家
- 那須資隆(太郎)
- 那須資隆(初名宗隆、与一)
- 那須資之(初名之隆、五郎)
- 那須頼資(肥前守、宇都宮氏の縁者)
- 那須光資(肥前守)
- 那須資村(肥前守)
- 那須資家(加賀権守)
- 那須資忠(安芸守)
- 那須資藤(備前守)
- 那須資世(越後守)
- 那須資氏(刑部大輔)
- 那須資之(越後守)
上那須家
下那須家
統一那須家
- 那須資房
- 那須政資(壱岐守)
- 那須高資(修理大夫)
- 那須資胤(修理大夫)
- 那須資晴(修理大夫、小田原の役に遅参し改易)
- 那須資景(左京大夫、那須藩)
- 那須資重(美濃守)
- 那須資弥(遠江守、実父は青木利長、烏山藩)
- 那須資徳(与一、実父は津軽信政)
- 那須資隣
- 那須資虎
- 那須資明
- 那須資礼(与一、実父は佐竹義方)
- 那須資興
- 那須資穀
[編集] 氏族・家臣
千本氏
大田原氏(大俵氏)
大関氏
福原氏
蘆野氏
- 蘆野資方(蘆野氏の祖)
- 蘆野資豊
- 蘆野資泰
- 伊王野資長(伊王野氏の祖)
- 伊王野資宗
- 伊王野資信
- 伊王野資重
その他の支族・家臣