かてもの
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かてもの
- 糅物…主食である穀物とともに炊き合わせを行う食物。転じて、飢饉などで食糧不足に陥った際に主食を節約するための代用食となる食物のこと。「糧物」とも。
- 江戸時代に米沢藩重臣莅戸善政が著した飢饉救済の手引書。本項にて解説。
かてもの(「かて物」とも)は、寛政12年(1800年)に当時の米沢藩重臣莅戸善政(のぞき よしまさ、大華)が、執筆した飢饉救済の手引書。2年後に前藩主上杉治憲(鷹山)の命によって刊行された。
「いろは」順に従って、穀物と混ぜたりあるいはその代用品として食用に用いる事が出来る草木果実の80種類の特徴とその調理法について解説され、他にも食料の保存法や備蓄しやすい味噌の製造法、魚や肉の調理法についても解説されている。
[編集] 天明の大飢饉と米沢藩
天明3年(1783年)、この年は天候が不順であり、早くから凶作とそれに伴う飢饉の可能性が指摘されていた。そこで当時の藩主・上杉治憲は、藩の執政であった莅戸善政らに対応策を命じた。莅戸らは、藩士・領民に対して白米を食べる事を禁じて米を原料とする酒や菓子の製造を中止させて主食の食い延ばしを図るとともに、代用食となる動植物の調査を行った。また、比較的米に余裕があった庄内地方や越後国から米を買い入れるとともに、縁戚であった尾張藩などからも米を借入した。その年の秋は米の作柄は例年の1/4となり、米沢藩では藩内の義倉(郷倉)のみならず全ての蔵を開いて領民に配給を施した。その結果、米をはじめとする穀物を計4万8千俵を放出した。その結果、所謂天明の大飢饉においては辛うじて領民の犠牲を防いだものの、藩の財政は破綻状態に陥って治憲が進めてきた藩政改革の成果は水泡に帰し、治憲は失意のうちに養子の治広に家督を譲る事になった。
[編集] 「かてもの」執筆
莅戸善政は、治広の代になっても依然として藩政の中心にあって藩政改革の建て直しに尽力していたが、再び大飢饉が起きれば再び深刻な財政問題が生じるであろう事が予見できた。そこで莅戸は鷹山・治広と相談して再度このような事態に陥った場合の対応策を考える事となった。
まず、義倉制度の再整備である。義倉制度は治憲以前の米沢藩にも存在したが中絶し、治憲が再興したものであるが、天明の大飢饉で底を尽いてしまった。そこで莅戸らは20年計画で全ての藩士・領民に対してその収入に応じて一定額の穀物や金銭を積み立てる事を義務付けた。目標量に達するまでに23年かかったものの以後も新たな計画が立てられて幕末に至るまで継続された。
だが、飢饉が一度発生した場合にはそれが数年間にもわたる場合がある。これを憂慮した莅戸は普段から代用食となる動植物の調査・研究をする必要があると考えるようになった。そこで藩の侍医である矢尾板栄雪・江口元沢・水野道益の3名に食用となる動植物の研究を行わせた。彼らの報告に加えて本草学者の佐藤忠陵の意見も聴取した。寛政12年、その成果を元に莅戸自らが赤湯温泉に籠って執筆した。その内容は一歩間違えれば食べた者の生命の危険すらあるために完成後更に矢尾板達とその安全性について再検討した。こうした過程を経て享和2年(1802年)、“糅物”の語より「かてもの」と命名されたこの書物が米沢藩より刊行されて、藩内に合わせて1575冊が頒布されたのである。
[編集] 「かてもの」の成果
治憲や莅戸の没後である天保3年(1832年)は天明以来の大凶作となり、翌年には天保の大飢饉が発生した。当時の藩主・上杉斉定(治広の養子)は、「かてもの」を取り出して藩主自らが白米の食事を絶って粥をすすり、「かてもの」の記事の実践に務めた。これを見た藩士・領民もこれに倣い、結果的には米沢藩内からの餓死者を出すことはなかった。人々はこれを治憲・莅戸らの恩恵であると感謝したと言う。
明治維新後も「かてもの」の版木は引き継がれて、後に米沢市によって市立図書館に収められた。明治時代に根釧台地に駐屯していた屯田兵の部隊が食料不足で苦しんだ時に偶々所属していた旧米沢藩出身者の兵士が「かてもの」を愛読しており、その知識で飢えを凌いだと記録されている他、太平洋戦争直前にも当時の米沢市長が活字体に直して刊行して市民に頒布して食料不足に備えるなど、今日まで上杉治憲(鷹山)と莅戸ら重臣達の藩政改革の象徴として米沢の住民から重んじられているという。