グレアム・ベル
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アレグザンダー・グレアム・ベル (Alexander Graham Bell, 1847年3月3日 - 1922年8月2日)は、聴覚障害児教育の研究者、電話機の発明、及びベル電話会社の設立で知られる。なお、グラハム・ベルとも呼ばれるが、正確な発音ではない。
[編集] 略歴
スコットランドのエディンバラ生まれ。視話法の研究者メルヴィル (Alexander Melville Bell) を父に持つ。母が難聴であった事から、聾唖者に話し方を教える事に興味を持ったと言われている。エディンバラ大学及びロンドン大学で学び、24歳の時(1870年)に、病で余命6ヶ月と宣告された事を切っ掛けに、父と共にカナダに移住した。その後、アメリカへ移り、ボストン大学で音声学を教える傍ら、音声の多重伝送を研究した。この研究の最中、偶然に、電磁石を使ったマイクの原理(現在のリボンマイクと同じ原理)を発見し、電話機の発明を志した。
1876年2月14日には、特許を出願し、3月7日に認可された。ベルの出願の2時間後に、シカゴのイライシャ・グレイ(Elisha Gray)が液体抵抗式マイクを使った電話機の特許を出願した。アメリカの特許制度は先発明主義だったので、ベルより先に発明した事を証明出来れば特許はグレイのものとなるが、グレイは手続きをせず、特許はベルのものとなった。失意のグレイは更に上を目指そうと努力し、ファクシミリの原型を発明した。また、ベルの申請の前の1月14日には、トーマス・エジソンも電話機の特許を申請していたが、内容が不完全だった為却下されている。エジソンのチームは1877年、カーボンマイクを使った電話機を発明し、これがその後の電話機の原型となった。
因みに特許出願をしたのは本人ではなく、後援者で顧問弁護士のガーディナー・ハーバードである。一説に、グレイの出願の動きを知って独断で出願したと言われている。
3月10日に、通話可能な電話機が初めて完成した。この電話機は、グレイが研究していた液体抵抗式マイクを使っていた。なお発明直後にベルの下で視話法を学んでいた伊沢修二と留学生仲間である金子堅太郎が電話を使っており、日本語が世界で2番目に通話した言語になった。
1877年にベル電話会社(後のAT&T社)を設立。また、電話機の発明に対して授与されたヴォルタ賞を原資として、ヴォルタ研究所を興した。同年の7月11日にボストン大学で彼が教えていた難聴であるメイベル・ハバード(Mabel Hubbard)と結婚した。後に4人の子供の父となった。
1882年にアメリカに帰化した。エジソンと並びアメリカの2大発明家とも言われる。
1887年、アン・サリヴァンをヘレン・ケラーの家庭教師として紹介し、以後ケラーと交流した。
従兄弟のチチェスター・ベルは、同僚チャールス・サムナー・テインターと共にヴォルタ研究所でエジソンの蓄音機フォノグラフの改良に取り組み、蝋をシリンダーに用いた蓄音機、グラフォフォンを発明した。
[編集] 外部リンク
- Alexander Graham Bell Institute
- Complete list ベルによる特許の一覧
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