ゲーテ街道
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ゲーテ街道 (Goethestraße)は、ドイツの文豪ゲーテの足跡をたどるドイツ観光街道。ゲーテの生地フランクフルトから終焉の地であるヴァイマルを経由し、学生時代を過ごした街ライプツィヒにいたる全長約400kmの街道。かつては東西ドイツの壁に阻まれ往来することが困難であったが、ドイツ統合により観光街道として整備された。起点がドイツの空の玄関とも言うべきフランクフルト、終点がやはり空港を備えた大都市のライプツィヒで、交通の便がよいことから、近年特に人気が高まっている観光街道である。
[編集] 行程(主な観光地)
- フランクフルト (Frankfurt am Main)
ゲーテ街道は東に向かい、ハーナウ、シュタイナウ、フルダを経由するが、街道とは別に北に向かい『若きウェルテルの悩み』の舞台ともなったヴェッツラーを経由してアイゼナハに向かうゲーテ・ファンも多い。
- ハーナウ (Hanau)、シュタイナウ (Steinau am Straße)
- この2つの街はグリム兄弟とのゆかりが深い町で、ドイツ・メルヘン街道にも属している。ハーナウのマルクト広場にはグリム兄弟の銅像があり、シュタイナウにはグリム記念館がある。また、シュタイナウはドイツ木組み建築街道にも属しており、木組みの美しい民家を見ることができる。メルヘン街道と木組み建築街道はシュタイナウから北へ進み、ゲーテ街道は北東へ向かう。
- フルダ (Fulda)
- アイゼナハ (Eisenach)
- エアフルト (Erfurt)
- イルメナウ (Ilmenau)
- エアフルトから30kmほど南にある鉱山で知られる町。ゲーテの時代には保養地で、ゲーテは28回もこの町を訪れている。1780年、町の南にあるキッケルハーン山に鉱石採集に訪れたゲーテは、夕暮れの景色に感動し、山頂にある狩人小屋の壁板に即興詩『旅人の夜の歌』を書き付けた。
- エアフルトとイルメナウのほぼ中間にアルンシュタットという小さな町がある。1703年、当時18歳だった大バッハがオルガニストとして迎えられた教会がこの地に遺されておりバッハ教会と呼ばれている。
- エアフルトからイルメナウに入る道は厳密にはゲーテ街道から外れるものの、エアフルトからほど近く、テューリンゲン地方の豊かな森を体感できるコースとして人気が高い。
- ヴァイマル (Weimar)
- 1775年、ゲーテはカール・アウグスト公爵に招かれヴァイマルに移り、以後生涯の大半をこの地で過ごした。ヴァイマル公国は、図書館や宮廷劇場を市民に開放するなど積極的な文化政策を進め、小国ながらドイツにおける文化的中心となっていた。領主城館はゲーテがこの街に来る前年に焼失しており、現在の建物はゲーテの時代に建てられたものである。ゲーテは市街の東の外れにある公園にガルテン・ハウスという家を与えられ住んでいたが、1782年に新たな邸宅を市内に与えられ、亡くなるまでここに住んだ。この屋敷は現在も保管され公開されている。ゲーテがイェーナ大学に招いたシラーもヴァイマルに家を構えており、亡くなるまでの数年を過ごしている。ゲーテとシラーの銅像が国民劇場の前に建っているが、この国民劇場は、ゲーテが劇場監督を務め、シラーの作品を多く上演した劇場であり、後にはフランツ・リストやリヒャルト・シュトラウスが音楽監督を務めた劇場でもある。「ワイマール憲法」として知られているヴァイマル共和国の憲法が採択されたのもこの劇場であった。ヴァイマルの南郊にはゲーテやシラーの遺体が安置されたヴァイマル公家廟やさらに南にはベルヴェデーレ離宮がある。この街は「古典主義の都ヴァイマル」としてユネスコの世界遺産に登録されている。
- イェーナ (Jena)
- ライプツィヒ (Leipzig)
[編集] 関連項目
[編集] 参考図書
- 小塩節、津田孝二 『ゲーテ街道を行く』(新潮社、1999年) ISBN 4106020769