ソ連崩壊
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ソ連崩壊(ソれんほうかい)とは、1991年12月25日にソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体され消滅した事件である。
ソ連崩壊は、1922年の設立以来、アメリカ合衆国に匹敵する超大国として69年間続いたソビエト連邦が独立国家共同体(CIS)に取って代わられその国家格を失ったという事と、東側陣営の総本山として君臨し、前身のボリシェヴィキ時代を含めると1917年以来74年間続いたソ連共産党による社会主義体制が崩壊した事により、かつて世界を二分した冷戦の時代が名実共に終わりを迎えたという、二つの文脈において重要な出来事である。
目次 |
[編集] 前史
1953年にソ連共産党党第1書記に就任し、1956年にスターリン批判を行ったフルシチョフは、社会主義の範囲での自由化・民主化を進めようとした。しかし党官僚の抵抗に遭い、1964年に失脚。後を継いだ党官僚出身のブレジネフの時代は、退歩もない代わりに進歩もない停滞の時代と呼ばれ、党官僚の特権化や物資不足・冷戦の激化ばかりが進んだ。
[編集] ペレストロイカと東欧革命
1982年にブレジネフが死去した後、アンドロポフ、チェルネンコと短命政権が続く。
1985年3月、ソ連共産党書記長に選出されたゴルバチョフは、フルシチョフの失脚以来封印されていた社会主義の範囲での自由化・民主化に再着手した。これをペレストロイカと呼ぶ。それまで秘密のベールに包まれていたソ連共産党中央委員会にテレビジョンカメラを入れ、会議の模様を全国中継するなど、グラスノスチ(情報公開)も推進した。しかし、1986年4月に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故を、西側に指摘されるまで隠蔽するなど、改革の不充分さも露呈した。この後、ペレストロイカは速度を上げることとなった。
ゴルバチョフによるペレストロイカは外交面でも2つの新機軸を打ち出した。一つが冷戦体制を緊張緩和の方向に導く新思考外交、そしてもう一つが東欧における衛星国に対してのソ連及びソ連共産党の指導性の否定(シナトラ・ドクトリン)である。冷戦の緊張緩和については1986年ソ連軍のアフガニスタンからの撤退を表明。翌年1987年には当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンとの直接会談(レイキャヴィーク会談)を実現させた。この会談では当時アメリカが進めていたSDI(スターウォーズ計画)を巡ってレーガンと対立したが、当時の2大大国が話し合いによって歩み寄りの姿勢を示すことが世界に対して示された意義は大きい。
シナトラ・ドクトリンに関してはゴルバチョフ就任当初から各国共産党に対して内々に示されていたが、88年のベオグラード宣言の中でこれを明文化し世界中に対してソ連が東欧諸国に対する指導制を放棄した事を表明した。こうしたソ連の変化に対していち早く対応したのがハンガリーとポーランドである。この2カ国はいち早く民主化運動に乗り出し、特に1989年8月にハンガリーで行われた汎ヨーロッパ・ピクニックは11月にベルリンの壁崩壊を引き起こした。ベルリンの壁崩壊を引き金に各国の共産党政権は次々と下野。自由選挙による新政権が成立した。この一連の東欧革命に対しても、ゴルバチョフは早急な東西ドイツ統一とそれに伴う北大西洋条約機構(NATO)の拡大を警戒したのみで、ハンガリー動乱やプラハの春の時のように武力で民主化運動を鎮圧するという立場を取らなかった。
[編集] ソ連の崩壊
こうした東欧の民主化革命はソ連に対しても連邦制の動揺という形で跳ね返ってくる事になった。エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の独立要求である。こうした連邦内の動揺に対してゴルバチョフはソ連の国内改革によって事態を収拾しようと試み、1990年連邦に対しての強大な権力を与えた大統領ポストを創設。自らソビエト連邦初代大統領(そして結果的に最後の大統領)に就任した。
バルト三国の独立については、東欧諸国とは違いソ連軍を投入し武力で鎮圧する立場を取った。同時にゴルバチョフがこれらの国に入って市民と対話しようと試みるも、ソ連軍の介入によって逆に独立感情が高揚。結局リトアニアが1991年3月、エストニアとラトビアは8月に独立宣言を行い、従来の15共和国による連邦体制は崩壊した。
1991年8月19日、守旧派の党官僚によるクーデター(ソ連8月クーデター)の失敗はソビエト連邦とソ連共産党の崩壊を決定的なものにした。クリミアでの軟禁を解かれたゴルバチョフは直ちにソ連共産党の解体を支持。ここに1898年に創設され、世界最初の共産主義政権を打ち立て、全世界の共産主義政党をリードしたソ連共産党はその歴史に幕を閉じた。またゴルバチョフの求心力は決定的に失落、かわって反クーデター運動をリードした、ボリス・エリツィンが新生ロシアのリーダーとしてその存在感を大きなものにしつつあった。又ロシア共和国をはじめとした12共和国によってソ連に変わる新しい枠組みとして独立国家共同体(CIS)が創設され、ソ連はその存在意義を完全に喪失した。こうした中でゴルバチョフはソ連邦大統領辞任を決意し、辞任と同時にクレムリンに掲げられていた赤旗も降ろされることとなった。
[編集] ソ連邦崩壊の影響
労働者の祖国と呼ばれたソ連の崩壊は、社会主義の実験の失敗を意味すると同時に世界的な混乱を引き起こした。それ以前からソ連への批判色の強かった日本共産党こそ「歴史的巨悪であったソ連共産党の解体を両手を挙げて歓迎する」と述べたものの、日本国内で東側の立場を代弁していた日本社会党は消滅し、社会主義を放棄した国々の旧共産党は、次々に社会民主主義政党に衣替えしていった。また、西側の社会民主主義政党は、「第三の道」と呼ばれる中道・リベラリズムに近い方向へ路線転換を図っていった。東欧革命を反スターリン主義革命に転化できなかった日本の新左翼は、敗北と言われた。ソ連のスターリン主義を主要打撃対象としていた革マル派は、「世界史的大逆流」と解釈不能に陥った。新右翼活動家の野村秋介は、闘争目標を失ったとして朝日新聞社社長室で拳銃自殺した。
アメリカ合衆国と唯一互角に戦えると思われていた二大パワーの一つ・ソ連の消滅によって、アメリカ合衆国は唯一の超大国となり、他の国際連合全加盟国が結束してもアメリカには対抗できない状況となっていった。
[編集] ソ連崩壊のその後
ソ連崩壊後に出現した政権は、いずれも市場経済化を標榜した。ただし市場経済への移行は一朝一夕には進まず、旧ソ連諸国家を含めた東欧では1990年代を通して経済状況が進展しなかった事から、モルドバ等において、東欧革命によって一旦は退席した旧共産党系政権が政権の座に復帰する事態もしばしば現れた。
ただし2000年代中頃までの中期的な視野に立って見た場合、ソ連の衛星国であった東欧諸国の市場経済化は概ね達成され、2004年にはスロベニア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ポーランドと旧ソビエト連邦構成諸国家のうちバルト三国のリトアニア、ラトビア、エストニア、合わせて東欧7ヶ国が欧州連合入りを果たした。特にスロベニアは既に国民一人当たりの国内総生産(GDP)がポルトガル、ギリシャを上回っており、スロベニア系企業の東欧諸国への進出も活発である。
この他、ルーマニア、ブルガリアは2007年のEU入りを目指している。またCIS諸国の中ではウクライナではソ連型社会主義への回帰をはっきり謳うウクライナ共産党が一定の勢力を維持している一方で、2004年大統領に就任したヴィクトル・ユシチェンコは将来的なEU入りを掲げている。しかし、その後の選挙で親ロシア派政党が政権を執るなど、現在も政治的混乱が続いている。
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