ナリタブライアン
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ナリタブライアン(Narita Brian、1991年5月3日 - 1998年9月27日)は、日本の競走馬・種牡馬。日本競馬史上5頭目のクラシック三冠馬。愛称は「ナリブー」、「シャドーロールの怪物」。半兄に1993年のJRA賞年度代表馬ビワハヤヒデがいる。1998年日本中央競馬会(JRA)の顕彰馬に選出。クラシック三冠を含むかつての八大競走を4勝していることから四冠馬とも称される。
- ※年齢は全て旧表記(数え年)にて表記
1996年3月9日 阪神競馬場 |
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性別 | 牡 |
---|---|
毛色 | 黒鹿毛 |
白斑 | 星額刺毛鼻梁鼻白・珠目上 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1991年5月3日 |
死没 | 1998年9月27日 |
父 | ブライアンズタイム |
母 | パシフィカス |
生産 | 早田牧場新冠支場 |
生国 | 日本(北海道新冠町) |
馬主 | 山路秀則 |
調教師 | 大久保正陽(栗東) |
厩務員 | 村田光雄 |
競走成績 | 21戦12勝 |
獲得賞金 | 10億2691万6000円 |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 誕生
ナリタブライアンは1991年5月3日、北海道新冠町にある早田牧場新冠支場で繁殖牝馬パシフィカスの第5仔として誕生した。同牧場の代表者早田光一郎は誕生後、これといって目立つ馬ではなかったと語っている。
[編集] 血統
- 血統表
ナリタブライアンの血統 (ヘイルトゥリーズン系/アウトブリード) | |||
父
*ブライアンズタイム Brian's Time 1985 黒鹿毛 |
Roberto 1969 鹿毛 |
Hail to Reason | Turn-to |
Nothirdchance | |||
Bramalea | Nashua | ||
Rarelea | |||
Kelley's Day 1977 鹿毛 |
Graustark | Ribot | |
Flower Bowl | |||
Golden Trail | Hasty Road | ||
Sunny Vale | |||
母
*パシフィカス Pacificus 1981 鹿毛 |
Northern Dancer 1961 鹿毛 |
Nearctic | Nearco |
Lady Angela | |||
Natalma | Native Dancer | ||
Almahmoud | |||
Pacific Princess 1973 鹿毛 |
Damascus | Sword Dancer | |
Kerala | |||
Fiji | Acropolis | ||
Riffi F-No.13-a |
- 血統的特徴
ナリタブライアンの血統構成は、ノーザンダンサーの血を引きつつも同馬のインブリードをもたない。生産者の早田はアウトブリードを重視する生産方針をもち、意図的にノーザンダンサー産駒の繁殖牝馬パシフィカスとノーザンダンサーの血を引かない種牡馬ブライアンズタイムを交配させた。なお、両親はともに早田が日本国外から輸入したサラブレッドである。
- 近親
- 半兄 ビワハヤヒデ - 菊花賞、天皇賞(春)、宝塚記念
- 全弟 ビワタケヒデ - ラジオたんぱ賞
- 従妹 ファレノプシス - 桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯
- 祖母 パシフィックプリンセス - デラウェアオークス等
- 祖祖母 フィジー - コロネーションステークス
[編集] デビュー前
ナリタブライアンは資生園早田牧場えりも分場および同牧場新冠支場での鍛錬を経て、中央競馬に所属してデビューすることとなった。1993年5月13日にJRAの馬体検査を受け合格し、同年5月19日、栗東の大久保正陽厩舎に入厩した。
[編集] デビュー前のエピソード
- 早田によると、1992年10月以降資生園早田牧場新冠支場において行った初期調教において、すでに優れた身体能力を示していた。あるとき複数の馬に牧場内の坂を上り下りさせる運動をさせたころ、1頭だけ全く呼吸が乱れなかった。
- 早田によるとナリタブライアンの馬主が山路に、調教師が大久保に決定した経緯は以下の通りである。まず家畜取引商の仲介によって大久保に紹介され、大久保が山路に購入を打診。山路と大久保が資生園早田牧場を訪れ購入が決定した。なお大久保は後に「ビワハヤヒデの活躍が早ければナリタブライアンは自分のところにはやってこなかった。」と述懐している。
- ナリタブライアンの競走馬名の由来は、山路が大久保厩舎への預託馬に使用していた冠名「ナリタ」に父ブライアンズタイムの馬名の一部「ブライアン」を加えたものである。
- 南井が主戦騎手となった経緯について、南井自身は大久保に「君はダービーを勝ったことがあるか?」と問われ、ないと答えたところ「じゃあウチの馬に乗ってダービーを勝ってくれないか」と持ちかけられたとしている。ただし大久保はこのやり取りがあったことを否定している。
[編集] 競走馬時代
[編集] 3歳時
ナリタブライアンは1993年8月15日、函館競馬場の新馬戦でデビューした。「ビワハヤヒデの弟」として注目を集め2番人気に支持されたが2着に敗れ、その後中1週で再び同競馬場の新馬戦に出走して初勝利を挙げた。
3戦目の函館3歳ステークスでは2戦目のレース内容が高く評価され、2番人気に支持されたが、レースでは第3コーナーで失速し、6着に敗れた。騎乗した南井克巳によると、馬場状態が重馬場であったことがナリタブライアンには不利に作用したと語っている。その後、4戦目のきんもくせい特別では優秀な走破タイム(当時の福島競馬場芝1700mにおける3歳馬レコードに0.1秒差)を記録して優勝したが、続くデイリー杯3歳ステークスでは後方から前方へスムーズに進出できない不利があり、3着に敗れた。
5戦目までのナリタブライアンは精神的な問題からレースにおいて走りに集中できない面を見せていた(同馬の性格・気性については性格・気性を参照)ため、それを改善するべく6戦目の京都3歳ステークスではシャドーロールが装着された。そのことが功を奏し同レースをレコード(京都競馬場芝1800mにおける3歳馬のレコード。従来のものを1.1秒更新した)で優勝した。ちなみにシャドーロールは以降出走した全レースにおいて装着された。
続くGI朝日杯3歳ステークスでは序盤に馬群の中ほどにつけ第3コーナーで前方へ進出を開始する競馬によって優勝。GI初優勝を達成し、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬に選ばれた。(なお、3歳時のローテーションについては性格・気性、および調教師とマスコミとの対立を参照)
年月日 | 競走名 | オッズ | 着順 | 距離(m) | タイム(上3F) | 着差 | 騎手 | 勝ち馬/(2着馬) | |
1993年 8.15 | 函館 | 新馬 | 4.3(2人) | 2着 | 1200(重) | 1:13.7 (37.3) | -0.2秒 | 南井克巳 | ロングユニコーン |
8.29 | 函館 | 新馬 | 2.0(1人) | 1着 | 1200(重) | 1:12.8 (37.4) | 9馬身 | 南井克巳 | (ジンライ) |
9.26 | 函館 | 函館3歳S (GIII) | 3.8(2人) | 6着 | 1200(重) | 1:14.9 (39.6) | -0.8秒 | 南井克巳 | マリーゴッド |
10.24 | 福島 | きんもくせい特別 | 1.7(1人) | 1着 | 1700(良) | 1:43.1 (36.0) | 3馬身 | 清水英次 | (ランセット) |
11.6 | 京都 | デイリー杯3歳S (GII) | 4.2(2人) | 3着 | 1400(良) | 1:22.7 (35.1) | -0.7秒 | 南井克巳 | ボディーガード |
11.21 | 京都 | 京都3歳S | 2.0(1人) | 1着 | 1800(良) | R1:47.8 (34.6) | 3馬身 | 南井克巳 | (テイエムイナズマ) |
12.12 | 中山 | 朝日杯3歳S (GI) | 3.9(1人) | 1着 | 1600(良) | 1:34.4 (35.7) | 3 1/2 | 南井克巳 | (フィールドボンバー) |
[編集] 4歳時
- 共同通信杯4歳ステークスから東京優駿まで
4歳時となったナリタブライアンの緒戦には、東京優駿(日本ダービー)を見据え東京競馬場のコースを経験させておこうという大久保の意向により、1994年2月14日の共同通信杯4歳ステークスが選ばれた。レースでは馬群の中ほどに控え、直線入り口で早くも先頭に並びかけるとそのまま抜け出して優勝した。
共同通信杯の後、大久保は後述の気性面の問題からクラシック第一戦の皐月賞にスプリングステークスを経由して出走することを決定。同レースでは第3コーナーにおいて最後方からまくりをかけ優勝した。この時点でそれまでのレースぶりやライバル馬との力関係から「既に三冠は確実」とも評価されるようになり、皐月賞では圧倒的な1番人気に支持された。同レースでは中山競馬場芝2000mのコースレコードを破る走破タイムで優勝し、5連勝を達成するとともにクラシック一冠を獲得した。(スプリングステークスおよび皐月賞に関する詳細については第54回皐月賞を参照)
東京優駿(日本ダービー)では皐月賞の内容がファンによって高く評価され、圧倒的な1番人気に支持された。同レースでは早めにスパートをかけながらも出走馬の中で最も速い上がりを繰り出して優勝。クラシック二冠を達成した。(レースに関する詳細については第61回東京優駿を参照)
- 夏は北海道で調整
東京優駿の後、夏場は札幌・函館の両競馬場において調整されることが決定した。これは避暑を行う(ただし結果的にこの年の北海道は例年にない猛暑に見舞われた)とともに厩舎スタッフが直接調整を行うための措置であった。通常、出走予定のない競走馬に両競馬場内の馬房が与えられることはないが、ナリタブライアンの実績および話題性、さらに当時の競馬ブームの状況下、放牧に際しての予期せぬアクシデントの危険が考慮された結果、特例で許可された。9月4日の昼休みには函館競馬場内のパドックにおいてファンへの披露が行われた。
- 京都新聞杯から有馬記念まで
ナリタブライアンの秋緒戦には、菊花賞トライアル競走の京都新聞杯が選択された。北海道から栗東トレーニングセンターへ戻った後、それほど強い調教が課されていなかったことから体調面を懸念する声もあり、「ナリタブライアンが負けるとすればこのレース」とも言われた。同レースでは圧倒的な1番人気に支持されたが、直線で一時先頭に立つもスターマンに競り負けて2着に敗れ、懸念が的中する形となった。しかし菊花賞では、京都新聞杯出走後ナリタブライアンの体調は上向いたと判断され、クラシック三冠達成への期待も相まって圧倒的な1番人気に支持された。ナリタブライアンは同レースをレースレコードを更新する走破タイムで優勝し、日本競馬史上5頭目となるクラシック三冠を達成した。(京都新聞杯および菊花賞に関する詳細については第55回菊花賞を参照)
古馬との初対戦となった有馬記念では圧倒的な1番人気に支持された。ナリタブライアンは同レースに優勝(レースに関する詳細については第39回有馬記念を参照)。1994年の通算成績を7戦6勝・GI4勝とし、同年のJRA賞年度代表馬及び最優秀4歳牡馬に選ばれた。
年月日 | 競走名 | オッズ | 着順 | 距離(m) | タイム(上3F) | 着差 | 騎手 | 勝ち馬/(2着馬) | |
1994年 2.14 | 東京 | 共同通信杯4歳S (GIII) | 1.2(1人) | 1着 | 1800(良) | 1:47.5 (35.1) | 4馬身 | 南井克巳 | (アイネスサウザー) |
3.27 | 中山 | スプリングS (GII) | 1.2(1人) | 1着 | 1800(良) | 1:49.1 (35.6) | 3 1/2 | 南井克巳 | (フジノマッケンオー) |
4.17 | 中山 | 皐月賞(GI) | 1.6(1人) | 1着 | 2000(良) | R1:59.0 (35.8) | 3 1/2 | 南井克巳 | (サクラスーパーオー) |
5.29 | 東京 | 東京優駿 (GI) | 1.2(1人) | 1着 | 2400(良) | 2:25.7 (36.2) | 5馬身 | 南井克巳 | (エアダブリン) |
10.16 | 阪神 | 京都新聞杯 (GII) | 1.0(1人) | 2着 | 2200(良) | 2:12.2 (34.5) | -0.1秒 | 南井克巳 | スターマン |
11.6 | 京都 | 菊花賞 (GI) | 1.7(1人) | 1着 | 3000(稍) | R3:04.6 (34.3) | 7馬身 | 南井克巳 | (ヤシマソブリン) |
12.25 | 中山 | 有馬記念 (GI) | 1.2(1人) | 1着 | 2500(良) | 2:32.2 (34.8) | 3馬身 | 南井克巳 | (ヒシアマゾン) |
[編集] 5歳時
有馬記念後は放牧に出さず栗東トレーニングセンター内の厩舎で調整を行い、天皇賞(春)優勝を目指した。緒戦の候補には阪神大賞典および大阪杯が挙がったが、「休み明けはゆったりしたペースの中で走らせたい」という大久保の意向により、長距離戦である阪神大賞典が選ばれた。同レースにおいてナリタブライアンは生涯最速の上がり(3ハロン33.9秒)を繰り出し優勝したが、出走直後から腰に疲労蓄積による異常がみられるようになった。そのため負荷の強い調教をこなすことができなくなり、厩舎スタッフは軽めの運動をさせつつ天皇賞(春)出走を目指したが1995年4月7日、精密検査の結果右股関節炎を発症していることが判明。全治は2か月とされ、天皇賞(春)への出走は断念された。
ナリタブライアンは約1か月間厩舎で静養した後早田牧場新冠支場で療養生活を送り、7月上旬から2か月にわたって函館競馬場内において調整が行われた。しかし軽い運動しか行われなかったため、マスコミによって体調不安が指摘された。9月に栗東トレーニングセンターに戻った後も負荷の強い調教が積極的に課されることはなく、体調不安や調教不足を指摘する声は根強かったが大久保は天皇賞(秋)への出走を決定。1番人気に支持されたがレース終盤に失速し12着に敗れた(なお同レース出走に関する大久保への批判については調教師とマスコミとの対立を参照)。その後ジャパンカップ・有馬記念に出走したが、かつてのパフォーマンスには程遠い内容の走りでそれぞれ6,4着に敗れた。この3戦では主戦騎手の南井が負傷療養中であったため的場均・武豊が騎乗したが、両者ともにナリタブライアンのレース振りについて「途中まではいい感じだったが、直線で止まってしまった」とコメントした。この時期のナリタブライアンの体調については、天皇賞(秋)の後厩舎において同馬を見た大川慶次郎が「整体が狂っている、それもかなり重症ではないか」と述べているほか、ジャパンカップにおいてランドに騎乗したマイケル・ロバーツが「パドックで見たナリタブライアンは私の記憶している全盛期の同馬ではなかった」とコメントするなど、万全ではないという判断が多くなされた。
年月日 | 競走名 | オッズ | 着順 | 距離(m) | タイム(上3F) | 着差 | 騎手 | 勝ち馬/(2着馬) | |
1995年 3.12 | 京都 | 阪神大賞典(GII) | 1.0(1人) | 1着 | 3000(良) | 3:08.2 (33.9) | 7馬身 | 南井克巳 | (ハギノリアルキング) |
10.29 | 東京 | 天皇賞(秋) (GI) | 2.4(1人) | 12着 | 2000(重) | 1:59.4 (35.7) | -0.6秒 | 的場均 | サクラチトセオー |
12.26 | 東京 | ジャパンC (GI) | 3.7(1人) | 6着 | 2400(良) | 2:25.3 (35.4) | -0.7秒 | 武豊 | ランド |
12.24 | 中山 | 有馬記念 (GI) | 3.8(2人) | 4着 | 2500(良) | 2:34.1 (35.6) | -0.5秒 | 武豊 | マヤノトップガン |
[編集] 6歳時
1996年の緒戦には前年と同じく阪神大賞典が選択された。レースでは前年の年度代表馬マヤノトップガンをマッチレースの末に下し、同レース連覇を果たすとともに1年ぶりの勝利を挙げた。なお、このレースはしばしば日本競馬史上の名勝負のひとつに挙げられる。(レースに関する詳細については第44回阪神大賞典を参照)
阪神大賞典を勝利したことによってナリタブライアンの復活が印象づけられ、天皇賞(春)では1番人気に支持されが、レースではサクラローレルに差され2着に敗れた。なお大久保はこのレースにおける南井の騎乗法(折り合いを欠いたナリタブライアンを第3コーナーでスパートさせた)に不満を覚え、南井をナリタブライアンの主戦騎手から降板させた。(レースに関する詳細については第113回天皇賞 (春)を参照)
天皇賞(春)の後、陣営は宝塚記念優勝を目標に据えた。大久保は後述の気性面の問題から宝塚記念の前に一度レースに出走させる方針を立て、武豊騎乗で芝スプリント戦のGI・高松宮杯に出走させることを決定した。中長距離の実績馬がスプリント戦に出走するのは極めて異例のことであったためこの出走は話題を呼んだが、レースでは4着に敗れた。なお出走後通算獲得賞金が10億2691万6000円となり、メジロマックイーンを抜いて歴代1位(当時)となった。(レースに関する詳細については第26回高松宮杯 (競馬)を、同レース出走に関する大久保への批判については調教師とマスコミとの対立を参照)
高松宮杯から約1か月後の6月18日、調教後に右前脚に屈腱炎発症。同月28日に函館競馬場、8月には早田牧場新冠支場へ移送して治療が行われた。大久保はナリタブライアンの復帰に強い意欲を見せていたが、9月に日刊スポーツがナリタブライアンの引退が決定したと報道。さらに読売新聞の取材に対して山路が引退を認めた。10月に入り大久保も交えて話し合いが行われ、正式に引退が決定した。種牡馬入りに際しては内国産馬として史上最高額となる20億7000万円のシンジケートが組まれた。11月9日には京都競馬場で、11月16日には東京競馬場で引退式が行われた。関東と関西2か所で引退式が行われた競走馬はシンザン、スーパークリーク、オグリキャップに続きJRA史上4頭目であった。
年月日 | 競走名 | オッズ | 着順 | 距離(m) | タイム(上3F) | 着差 | 騎手 | 勝ち馬/(2着馬) | |
1996年 3. 9 | 阪神 | 阪神大賞典 (GII) | 2.1(2人) | 1着 | 3000(良) | 3:04.9 (34.5) | アタマ | 武豊 | (マヤノトップガン) |
4.21 | 京都 | 天皇賞(春) (GI) | 1.7(1人) | 2着 | 3200(良) | 3:18.2 (35.5) | -0.4秒 | 南井克巳 | サクラローレル |
5.19 | 中京 | 高松宮杯 (GI) | 4.3(2人) | 4着 | 1200(良) | 1:08.2 (34.2) | -0.8秒 | 武豊 | フラワーパーク |
[編集] 重賞勝ち鞍
- GI競走
- 有馬記念(1994年)
- 東京優駿(日本ダービー)(1994年)
- 菊花賞(1994年)
- 皐月賞(1994年)
- 朝日杯3歳ステークス(1993年)
- GII競走
- 阪神大賞典(1995年、1996年)
- スプリングステークス(1994年)
- GIII競走
共同通信杯4歳ステークス(1994年)
[編集] 受賞
[編集] 競走馬時代のエピソード
- 3歳・4歳時
- 3歳時に福島競馬場での出走経験があるが、同競馬場は中央競馬においてマイナーな存在であり、活躍を見込まれている3歳馬が出走することはあまりない。そのため、出走当時のナリタブライアンはそれほど期待された存在ではなかったとされることがある。大久保はこの出走について、少しでも楽に勝って賞金を加算したかったとしている。
- 共同通信杯4歳ステークスを優勝する前日には兄のビワハヤヒデが京都記念を優勝しており、兄弟による連日の重賞制覇となった。ちなみに共同通信杯4歳ステークスは本来京都記念と同じ日に行われる予定であったが、積雪によって施行日が1日順延したため、兄弟による同日重賞制覇とはならなかった。
- 東京優駿直前の調教においてシャドーロールを外して走行させる試みがなされたが、走行の内容は芳しくなく、試みは失敗に終わった。
- 1994年牡馬クラシック戦線は故障馬が多く、三冠全戦に出走できたのはナリタブライアンとサムソンビッグのみであった。そのため競走能力に加えて体力面においてもナリタブライアンの強さが讃えられた。
- 1994年上半期の古馬中長距離戦線においてはナリタブライアンの兄・ビワハヤヒデが天皇賞(春)、宝塚記念を優勝し古馬の中で最も良い実績を残した。そのため第39回有馬記念でのナリタブライアンとの兄弟対決に関心が集まったが、天皇賞(秋)においてビワハヤヒデが故障を発症し引退を余儀なくされたため、対決は実現には至らなかった。
- 大久保はナリタブライアンが出走し優勝したGIを2つ欠席している。1つめは朝日杯3歳ステークスであり、香港・沙田競馬場へ遠征した管理馬のナリタチカラに同行していた。2つめは皐月賞で、盲腸を患い投薬治療を受けていた影響から自宅で静養していた(表向きは風邪をひいたためとされた)。
- 6歳時
- 阪神大賞典については名勝負との評価がある一方、ナリタブライアンの体調は全盛期ほどの状態にはなかったとする見解もある。同レースに騎乗した武豊および大川慶次郎の見解については第44回阪神大賞典を参照。
- フジテレビ系列で放映されていた視聴者参加型オークション番組ハンマープライスに、関係者の好意により許可を得て採取された、ナリタブライアンのたてがみ数十本が出品されたことがあった。落札価格は44万円だった。
[編集] 競走馬としての評価
[編集] 客観的評価
- 日本には2005年までにクラシック三冠を達成した馬が6頭いるが、三冠を達成するまでに4度敗れており、歴代三冠馬の中では最も負け数が多い。一方、クラシック三冠の合計着差は15馬身半に及び、歴代三冠馬の中で最大である。
- 日本のクラシック三冠馬のうち、3歳時(旧表記)のGI朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)も合わせて制したクラシック三冠馬はナリタブライアン一頭だけである。
- 東京優駿では当時としてはハイセイコーの66.6%に次いで同レース史上2番目に高い61.8%の単勝支持率を集めた。同レース単勝馬券の配当額120円はシンボリルドルフの130円を下回り、当時としては同レース史上最低のものであった。
- 全日本フリーハンデでは、三冠を達成した1994年に129ポイントを獲得している。これはシンボリルドルフの128ポイントを上回り、日本の(旧)4歳馬としては※当時史上最高の評価である。
- ※古馬も含めると、ナリタブライアン以上のポイントが与えられているのはエルコンドルパサー、タップダンスシチー (133)、シンボリクリスエス、シンボリルドルフ (132)、カツラギエース、クロフネ (130)、スペシャルウィーク、タイキシャトル (129)である。(ディープインパクトは2006年6月時点で127ポイント。)いずれも国際レースで実績を残した競走馬であり、全日本フリーハンデでは、仮にナリタブライアンが4歳時にジャパンカップに出走して海外の馬と同じレースに出ていれば、さらに高いハンデが与えられたであろうことが示唆されている(ちなみに当時菊花賞に出走した4歳馬がジャパンカップに出走するケースは少なかった)。
[編集] ナリタブライアンの関係者による評価
デビュー戦の直前期に調教で騎乗した南井は、加速の仕方がオグリキャップと似ていたことから「これは走る」という感触を得た。レース後2着に敗れたにもかかわらず、「この馬はすごい」と評した。その後も南井はナリタブライアンに高い評価を与え続け、東京優駿優勝後には「今まで乗った馬の中で一番強いんじゃないか」とコメントした。また大久保もデビュー戦の後「この馬は強い。モノが違う」と絶賛し、函館3歳ステークスでは6着に敗れたにもかかわらずレース後早田に「凄い馬ですね。間違いなく大物になります。」と語った。さらにスプリングステークスを優勝した際「日本ダービーを勝てそうか」と問われ、「まあいけるんじゃないの」と答えた。
[編集] 競馬関係者による評価
東京優駿のレース後、野平祐二は自身が管理したシンボリルドルフとの比較において「これからいろいろあるだろうが、現時点ではブライアンが上かな」とした。
[編集] 対戦した主な競走馬
カッコ内は対戦した主なレース
- ナリタブライアンに先着したことのある競走馬
- サクラローレル (第113回天皇賞 (春))
- マヤノトップガン(第40回有馬記念、第44回阪神大賞典、第113回天皇賞 (春))
- スターマン(第42回京都新聞杯、第55回菊花賞)
- フラワーパーク(第26回高松宮杯)
- タイキブリザード(第15回ジャパンカップ、第40回有馬記念)
- ボディーガード(第25回函館3歳ステークス、第28回デイリー杯3歳ステークス、第45回朝日杯3歳ステークス)
- 先着したことのない競走馬
[編集] 引退後
1997年に生まれ故郷である新冠町のCBスタッド(早田牧場の傘下)で種牡馬となり、1997年には81頭、1998年には106頭の繁殖牝馬と交配され、1998年には史上24頭目の顕彰馬に選出された。
しかし1998年6月17日に腸閉塞を発症。緊急の開腹手術を行い一旦は快方に向かったが、同年9月27日胃破裂を発症。手当ての術がなく安楽死の措置がとられた。まだ8歳(満7歳)の早世であった。 当時異例とも言える監視カメラ冷暖房つきの馬房が、ナリタブライアンの為に特別に設置されていたが、病状発症の際の発見は遅れてしまった。
[編集] 死後
同年10月2日には追悼式が行われ関係者・ファン600人が参加した。また、故郷である北海道・新冠町のCBスタッド内に墓が建てられ、通常競走馬は死後火葬されるところを特別に土葬による埋葬が許可された。戦後土葬が許可されたサラブレッドは、ナリタブライアンとシンザン・テンポイント・マルゼンスキー・パシフィカスの5頭のみである。4年後の2002年破産によりCBスタッドは一時閉鎖されたが、その後ナリタブライアンの命日にあたる2000年9月27日、ナリタブライアン記念館として再オープンし、墓も同所に現存している。記念館館内には等身大の像や写真、優勝レイなどの記念品が展示されている。入館料は300円。同記念館の近くにはナリタブライアンショップがあり、同馬の関連グッズなどが販売されている。
ナリタブライアンは2世代にわたって産駒を残しており、死亡から2年後の2000年に1世代目が、翌2001年に2世代目がデビューした。しかし重賞を勝つ馬は出なかった(重賞ではマイネヴィータ・ダイタクフラッグが記録した2着、GIでは2002年皐月賞でダイタクフラッグが記録した4着が最高着順)。産駒には牝馬が多かったため、ナリタブライアンのファンは母の父として血を残すことに期待をかけている。
[編集] 種牡馬成績
- 成績詳細
年度 | 2000年 | 2001年 | 2002年 | 2003年 | 2004年 | 2005年 |
---|---|---|---|---|---|---|
順位(JRA) | 223位 | 58位 | 38位 | 57位 | 134位 | 139位 |
順位(全国) | 290位 | 83位 | 54位 | 68位 | 151位 | 156位 |
AEI(全国) | 1.26 | 0.85 | 1.15 | 1.42 | 0.90 | 1.19 |
総出走頭数 | 17 | 89 | 119 | 59 | 34 | 19 |
総勝ち頭数 | 6 | 27 | 49 | 28 | 16 | 7 |
総獲得賞金(円) | 4923万 | 3億1864万 | 4億6186万 | 3億2570万 | 1億1727万 | 8529万 |
- 産駒数/種付け数: 151/186頭
- 主な産駒
- マイネヴィータ - 札幌2歳ステークス2着、フラワーカップ2着、阪神ジュベナイルフィリーズ5着
- ダイタクフラッグ - 毎日杯2着、皐月賞4着
- ブライアンズレター - 中央36戦7勝(松籟ステークス、御堂筋ステークス)、地方7戦5勝
[編集] 性格・気性
競走馬時代のナリタブライアンは常にテンションが高く、特にレースが近づくとそれを察知し一層興奮する傾向があった。さらに生来臆病な面があり、カメラマンがカメラを向けるとそれを警戒して動かなくなったり、自分の影を怖がり疾走中に自分の足元に気をとられるなどよく物見をした。そうした精神面の問題からデビュー当初はレースにおいて走りに集中することができなかった。
それが改善されたのは、シャドーロールを装着するようになってからである。引退式において大久保が明かしたところによると、シャドーロール着用は南井の進言によって行われ、以降走行時に抜群の集中力を発揮するようになった。その後ナリタブライアンは精神的に成長しシャドーロールを装着しなくとも走りに集中できるようになったが、それが同馬の代名詞となっていたため敢えて外されなかった。なお、ナリタブライアンの活躍により、シャドーロールの普及が促進されることとなった。
早田によるとナリタブライアンがとったローテーションにも同馬の気性が関係しており、大久保にはレースを使うことによってエネルギーを発散させ、同馬の興奮を和らげようとする意図があった。3歳時に間隔を詰めて多くのレースに出走したこと(「一流馬のローテーションではない」と批難の対象となった)、4歳時にスプリングステークスに出走したこと、6歳時に高松宮記念に出走したことにはそのような意図が関係していた。早田によると股関節炎を発症し早田牧場で休養していたときのナリタブライアンはおとなしく、様子を見るために訪れた大久保が「牧場ではこんなに穏やかで優しい目をしているのか」と言ったほどであった。
[編集] 調教師とマスコミとの対立
大久保は主にナリタブライアンのローテーションの組み方を巡り、しばしばマスコミによる批判の対象となった。一方大久保もそうした報道やマスコミの報道姿勢に反発し、両者の関係は必ずしも良好とはいえなかった。以下、主な対立について記述する。
[編集] 3歳時のローテーションに関して
レースに出走させ過ぎであるという批判はナリタブライアンが競走馬として頭角を現すようになった当初から根強かった。これに対して大久保は「レースに出走させることによって競走馬を強くする」という持論を展開し、反論した。また早田は前述の気性面の問題を解消するための措置であったと大久保を擁護した。
[編集] 厩舎内取材禁止通達を巡って
皐月賞直前期、大久保はJRAを通じ、マスコミに対して厩舎内での取材を控えるよう通達を出した。これは厩舎内に無断で立ち入って写真を撮る者がいたためにとられた措置であったが、当時は何ら事情説明がなされなかったため、マスコミは高圧的だと強く反発した。同様の通達は同年の菊花賞、有馬記念の前にも出された。
[編集] 天皇賞(秋)出走に関して
前述のように体調不安や調教の不足が指摘されていたにもかかわらず大久保が出走を決断して大敗したため、出走を批判するマスコミが多かった。特に大川慶次郎は、「『あれほどの馬を状態が悪いのに使ってくるわけがない』と信じていたが間違いは調教師自身の見識にあった」「あれだけの馬を調教代わりにレースに使うのは間違いである」と大久保を批判し、その後のジャパンカップと有馬記念を含め4歳秋における一連の出走について「関係者はよってたかってナリタブライアンをただの平凡な馬に蹴落とそうとしているのではないか」という思いを抱いたと述べている。
これに対し大久保は、「レースに出走させることによって競走馬を鍛えるという信念に基づく出走であった」「調教の動きがよかったので出走させた」、「天皇賞(秋)に出走したことによりジャパンカップと有馬記念では成績は上昇しているので間違いだったとは思わない」としている。なお大久保は天皇賞(秋)の直後からジャパンカップ直前期までの間、ナリタブライアンの体調に関してコメントすることを拒絶することで限定的な取材拒否を行った。
[編集] 高松宮記念出走に関して
- 出走自体に関して
高松宮杯出走に関してはレースの前後を通じ、ナリタブライアンの距離適性の面から出走を疑問視ないし批判するマスコミが多かった。
大久保は出走を決断した理由について、当初「ブライアンは股関節炎の心理的な後遺症で長い距離を走らせると嫌がるようなそぶりを見せていた。そのために短距離戦を選んだ」と語っていた。しかし後にはそれを否定し、天皇賞(春)ではナリタブライアンは思い切り走っていたとし、むしろ「本当に強い馬は距離やコース形態を問わず勝てるはずだという信念が強く反映された出走であったとしている。さらに、世間をあっといわせたかった(ちなみにレース後、大久保は「盛り上がったでしょう」とコメントしている)、中京競馬場には一度も出走させていなかったためファンサービスの意味合いもあったとしている。これに対し大川慶次郎は「本当に強い馬は距離に関係なく勝てるはずだ」という思想は競馬番組の距離体系が整備されていなかった昔の考えであり、ひどい時代錯誤だと批判した。
- 南井から武豊への乗り替わりについて
前述のように大久保は南井から武豊への乗り替わりを実行した。その理由について大久保は当初、「南井の負傷療養中に乗ってもらったお礼」であるとしていたが、後に天皇賞(春)における南井の騎乗法を不満に思っての乗り替わりであったことを認めた。これについて大川慶次郎は、「南井ほどの、しかもナリタブライアンと一対のパートナーであった騎手を一度の騎乗ミスを理由にないがしろにすることは許されるものではない」という主旨の批判をした。
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 光栄出版部(編)『名馬列伝 ナリタブライアン』 光栄、1996年、ISBN 487719438X
- 橋本全弘『ナリタブライアンを忘れない―私が見つめた最強三冠馬の軌跡』 ベストセラーズ、1997年、ISBN 4584182884
- 大川慶次郎『大川慶次郎殿堂馬を語る』 ゼスト、1997年 ISBN 4-916090-52-7
- 瀬戸慎一郎人智を超えた馬 Yahoo! JAPAN(『競馬最強の法則』1997年10月号収録)
- 競馬名勝負愛好会2006『競馬名勝負列伝』 洋泉社、2006年 ISBN 4862480063
[編集] 脚注
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