中先代の乱
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中先代の乱(なかせんだいのらん)は、1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が信濃の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府復興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。
[編集] 概要
鎌倉時代末期に後醍醐天皇が討幕運動を起こし、足利尊氏など幕府の有力御家人が呼応し、1333年(元弘3年/正慶2年)、鎌倉は新田義貞らの攻撃で陥落し、北条氏は滅亡する。鎌倉幕府が滅亡した後、天皇親政である建武の新政が開始され、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子の成良親王を長とし尊氏の弟の足利直義が執権としてこれを補佐する形の鎌倉将軍府が設置された。建武政権は武家の支持を得られず、北条一族の残党などは各地で蜂起を繰り返していた。1335年(建武2年)には、鎌倉時代に関東申次を務め、北条氏と繋がりがあった公家の西園寺公宗や日野氏らが京都に潜伏していた北条高時の弟北条泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を擁立して政権転覆を企てた陰謀が発覚する。公宗らは後醍醐天皇の暗殺に失敗して誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかけた。
北条氏の旧領である信濃に潜伏していた時行は、旧譜代の諏訪頼重や滋野氏らに擁立されて挙兵し、時行の挙兵に応じて北陸では北条一族の名越時兼が挙兵する。時行勢は青沼において信濃守護小笠原貞宗を破り、武蔵国へ入り鎌倉へ進軍する。時行軍は女影原など各地で鎌倉将軍府の軍勢を破り、鎌倉から出陣して時行軍を迎撃した足利直義をも破る。直義は尊氏の子の幼い足利義詮や、後醍醐天皇の皇子成良親王らを連れて鎌倉を逃れる。鎌倉には建武政権から失脚した後醍醐天皇の皇子護良親王が幽閉されていたが、直義は鎌倉を落ちる際に密かに家臣の淵辺義博に護良親王を殺害させている。時行勢は逃げる直義を駿河国手越河原で撃破し、鎌倉を一時支配した。直義は三河国に駐在し、乱の報告を京都に伝えると同時に成良親王を返還している。
時行勢の侵攻を知らされた建武政権では、足利尊氏が後醍醐天皇に対して時行討伐の許可と同時に武家政権の設立に必要となる総追捕使と征夷大将軍の役職を要請するが、後醍醐天皇は要請を拒否する。尊氏は勅状を得ないまま出陣し、後醍醐天皇は尊氏に追って征東将軍の号を与える。尊氏は直義と合流し、遠江国橋本、小夜の中山、相模国相模川など各所で時行勢を連破し、時行は鎌倉を保つこと20日程度で逃亡し、諏訪頼重らは自害する。
尊氏は鎌倉において、乱の鎮圧に付き従った将士に勝手に恩賞を分配したり、建武政権の上洛命令を無視したりするなど、建武政権から離反する。
時行は鎌倉を逃れた後も各地に潜伏し、南北朝成立後は吉野の南朝から朝敵免除の綸旨を受けて南朝に従い、新田氏や北畠顕家の軍などに属して足利方と戦うが、1352年(正平7年/文和元年)に足利方に捕縛され、翌年、鎌倉において処刑される。