新田義貞
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時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 | |||
生誕 | 正安3年(1301年) | |||
死没 | 延元3年/建武5年閏7月2日 (1338年8月17日) |
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改名 | 小太郎、義貞 | |||
戒名 | 源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位 | |||
墓所 | 福井県坂井市長林山称念寺 | |||
官位 | 左馬助、播磨守、越後守、左衛門佐 左兵衛督、正四位下、左近衛中将 贈正二位大納言のち正一位 |
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氏族 | 清和源氏新田氏族 | |||
父母 | 朝氏、母親不詳 | |||
兄弟 | 脇屋義助 | |||
子 | 義顕、義興、義宗 |
新田義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代末期の御家人、南北朝時代の武将である。源義貞(みなもと の よしさだ)。
河内源氏の一門で上野国(上州)に土着した新田氏の棟梁。父は新田朝氏、母は不詳。幼名は小太郎。左馬助、播磨守、越後守、左衛門佐、左兵衛督を歴任し、正四位下左近衛中将となる。子は義顕、義興、義宗。弟は脇屋義助。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 挙兵から鎌倉攻略まで
新田氏は、河内源氏三代目の源義家(八幡太郎義家)の四男の源義国の長子の源義重(新田義重)に始まり新田荘(現在の群馬県太田市新田地区)を開発したが、義貞の時代には、新田氏惣領家の領地は新田荘60郷のうちわずか数郷に過ぎず、義貞自身も無位無官で、日の目を浴びない存在であった。1318年10月の義貞の売券案が残っているが売主が新田「貞義」と誤記されており、幕府での新田氏の地位の低さをあらわしている。また、義貞の長子義顕の生母を安東氏とする史料があり、これを有力な御内人安東入道聖秀の娘であるとする説がある。これが事実とすれば、没落御家人の新田氏が得宗配下の御内人安東氏の娘を娶ったことになる。霜月騒動で上野国の守護が安達氏から得宗へ替わり、上野でも得宗専制の影響が強くなってきたと見られ、必死になって権力にすがり付いて衰退する新田氏を立て直そうとする父朝氏と義貞の涙ぐましい努力が垣間見える。また、新田氏衰退に伴い、惣領家の一族に対する影響力も下降線をたどっており、1322年に一族の岩松政経と大館宗氏が用水争いを起こした際、幕府に裁定を持ち込んでいる。おそらく義貞の裁定では収まらなかったのであろう。
元弘元年(1331年)の元弘の変では鎌倉幕府に従い、河内国で挙兵した楠木正成の攻撃に参加している。しかし、義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう。これを理由のひとつとして、幕府は新田荘に対し多大の軍費を要求し、横暴的な取立てを行っており、義貞が幕府に背き挙兵を決意する直接のきっかけになったとも考えられる。古典『太平記』には、病気と称して新田荘に逼塞していた義貞が、新田荘の検分に来た幕府の徴税使・紀親連(幕府引付奉行、御内人)と黒沼彦四郎(御内人)を捕えて黒沼を斬ったことで、挙兵を決意したとある。また、元弘の変で出兵中、ひそかに護良親王から北条氏打倒の令旨を受け取っていたとの説もある。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月8日、後醍醐天皇の呼びかけに応え、生品明神に一族を集め鎌倉幕府討伐のため挙兵。最初に集まった軍勢はわずか150騎にすぎなかったと伝えられている。当初は利根川を超えて、一族が多数いる越後方面へ進軍する予定であったが、弟の脇屋義助に諭されて鎌倉攻めを決意したと伝えられる。越後の一族も加わり、新田軍は東山道を西へ進み、上野国守護所を落とし、利根川を越えた時点で足利高氏(後に尊氏)の嫡子千寿王(後に足利義詮)の軍と合流した。外様御家人最有力者足利高氏の嫡男が加わったことにより、周辺の御家人も加わり、新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。
さらに新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、桜田定国・金沢貞将率いる幕府軍と衝突する。兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となり、幕府軍は分倍河原(東京都府中市)まで退却する。幕府軍は再び分倍河原に陣を張り、新田軍と決戦を開始する。新田軍は一度は大敗するが、翌日には援軍に駆け付けた三浦氏一族の大多和義勝らの兵を合わせて幕府軍を撃破しており、恐らく足利高氏による六波羅探題滅亡の報が到達しており、幕府軍の増援隊の寝返りなどがあったのではないかとも考えられる。翌日、関戸(東京都多摩市)にて新田軍が大勝利を収めている(分倍河原の戦い)。
藤沢(神奈川県藤沢市)まで兵を進めた義貞は、軍を化粧坂(けわいざか)切通し方面、極楽寺坂切通し方面と巨副呂坂切通し方面に分けて鎌倉を総攻撃。極楽寺坂切通しの突破を困難と判断した義貞は、干潮に乗じて稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。北条高時の一族を北条氏菩提寺の東勝寺で自害させ、挙兵からわずか15日で鎌倉幕府を滅亡に導く。しかし、鎌倉陥落後、千寿王を補佐するために足利高氏が派遣した細川和氏・顕氏兄弟らと衝突し、居場所を失った義貞は上洛する。
[編集] 建武政権下の義貞
建武の新政においては、義貞は鎌倉攻めの功により左兵衛督に任ぜられ、武者所の長となる。
建武2年(1335年)に信濃国で北条氏残党が高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領する中先代の乱が起きると、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かい、鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめる。尊氏は義貞を君側の奸であるとしてその追討を後醍醐に上奏するが、逆に後醍醐は義貞に尊氏追討令を発し、義貞は尊良親王を奉じて東海道を鎌倉へ向かう。義貞は弟脇屋義助とともに矢作川の戦い(愛知県刈谷市)、手越河原の戦い(静岡県静岡市駿河区)で足利直義・高師泰の軍を破るが、鎌倉から出撃した尊氏に箱根・竹ノ下の戦い(静岡県駿東郡小山町)で撃破され、京都に敗走する。
翌建武3年(1336年)正月、入京した尊氏と京都市外で再び戦い、奥州より下ってきた北畠顕家と連絡し、京都で楠木正成らと連合して足利軍を駆逐する事に成功。再入洛を目指す足利軍を摂津国豊島河原(大阪府池田市)で破る。この功により正四位下左近衛中将に叙任される。さらに、九州へ奔る尊氏を追撃するものの、播磨国の白旗城で篭城した赤松則村(円心)に阻まれて断念。尊氏は九州を平定し海路東上してくるが、義貞は白旗城に篭城する赤松軍を攻めあぐね、時間を空費する。楠木正成らと共同して戦った湊川の戦い(兵庫県神戸市)において義貞は和田岬に陣を構えて戦うが、足利水軍の水際防衛に失敗し、西宮(兵庫県西宮市)で再起をはかるが京へ敗走する。
[編集] 北陸落ちと最期
湊川の戦いの後、比叡山に逃れた宮方は、足利方に奪還された京都を取り戻すために賀茂糺河原などに攻め下るが阻まれる。後醍醐天皇は足利方との和議を進め、義貞を切り捨てて比叡山から下山しようとしたが、義貞の一族家臣堀口貞満が後醍醐に、「当家累年の忠義を捨てて足利に降伏されるなら義貞以下一族全員の首をはねてお出ましあるべし」と奏上し、直前に阻止した。後醍醐天皇は朝敵となる可能性の出た義貞に対し、皇位を恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を委任し官軍であることを担保することで決着し下山。義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道を進み、越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入るが、まもなく高師泰・斯波高経率いる軍勢により包囲される。義貞、義助は杣山城(福井県南条郡南越前町)に脱出し、杣山城主瓜生保と協力して金ヶ崎城の包囲陣を破ろうとするが失敗する。金ヶ崎城は延元2年/建武4年(1337年)3月6日落城し、尊良親王、義顕は自害し、恒良親王は捕らえられ京へ護送される。
同年夏になると義貞は勢いを盛り返し、鯖江合戦で斯波高経に勝利し、越前府中を奪い、金ヶ崎城も奪還する。翌延元3年/建武5年(1338年)閏7月、武家方に寝返った平泉寺衆徒が籠もる藤島城を攻める味方部隊を督戦に向かうが、越前国藤島の燈明寺畷(福井県福井市新田塚)で黒丸城から加勢に向かう敵軍と偶然遭遇し戦闘の末戦死した。『太平記』においては、乗っていた馬が矢を受けて弱っていたため堀を飛び越えられず転倒し、左足が馬の下敷きになったところに流れ矢を眉間に受け、自分で首を掻き切ったと記述されている。義貞がここで戦死したことは史実であるが、この死に方は事実とは考えられず、『平家物語』の義仲の最期の記述にヒントを得た『太平記』作者の創作であると思われる。首級は京都に送られ、鎌倉幕府滅亡時に入手した清和源氏累代の家宝である名刀鬼切丸もこの時足利氏の手に渡ったという。
なお、江戸時代の明暦2年(1656年)にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、領主である福井藩主松平光通に献上した。象嵌が施された筋兜で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として松平家にて保管された。明治維新の後、義貞を祀る藤島神社を創建した際、越前松平家(松平侯爵家)より神社宝物として献納された。戦前は国宝、現在、国の重要文化財に指定されている。
法名:源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位。 墓所:福井県坂井市の長林山称念寺。
[編集] 人物
[編集] 評価
同時代では、南朝を主導していた北畠親房との確執があったとも言われ、親房の『神皇正統記』では「上野国に源義貞と云ふ物あり。高氏が一族なり」と足利尊氏より格下の扱いを受け否定的に書かれている。また、同様の記事が『増鏡』にも載せられている。
だが、一説によれば、新田氏の祖である新田義重が源頼朝の鎌倉幕府の創設に協力的でなかったため、幕府成立後には源義国系東国源氏棟梁の地位が義重の弟足利義康の子足利義兼の系統をもってあてられ、新田氏はその支配下に置かれる慣例が成立したためであるという説がある。実際に新田一族の中でも足利氏を一族の棟梁と考える者もおり、現に山名氏などは義貞挙兵時も足利千寿王(義詮)の指揮下に入ってその後も足利方についている。
また、室町時代に成立した古典『太平記』では、知略を巡らす智将として装飾的に描かれる楠木正成に対して、義貞には作者の共感が無く、優柔不断で足利尊氏との棟梁争いに敗れる人物として描かれていると指摘される。その一例として、義貞が摂津豊島河原で尊氏を破り九州へ敗走させた後、勾当内侍(次項参照)との別れを惜しんで追撃を怠ったため、尊氏が勢力を盛り返し湊川で官軍を破って入京したという、義貞のだらしなさを強調する記述がある(このことは史実とは考えられない)。
明治維新から戦前にかけては、皇国史観のもと、「逆賊」足利尊氏に対して後醍醐天皇に従った忠臣として楠木正成に次ぐ英傑として好意的に評価され、講談などで物語化された。戦後には、一東国武将に過ぎなかった者が能力以上の大任を与えられた凡将との見方が現れ、戦略家としては凡庸であり愚将であると評価する論者もある。一方で、『太平記』の物語描写からの評価を疑問視し、短期間で鎌倉を陥落させ、圧倒的実力差のあった尊氏を一時的にせよ撃破するなどの点から、武将としての資質を評価する意見もある。
[編集] 勾当内侍
古典『太平記』では、九州へ落ちた尊氏を追討せよとの命を受けた義貞が、後醍醐天皇より下賜された女官である勾当内侍との別れを惜しみ時機を逸したとのエピソードが記されている。勾当内侍とは内侍司の役職の1つで、後醍醐天皇に仕えた一条経尹の娘をさす。年代などから実在は疑わしく伝説的人物と考えられている。太平記では天皇の許しを得て義貞の妻となり、義貞は内侍との別れを惜しみ尊氏追討の機会を逃したと記されており、皇国史観などで南朝に殉じた武将として称えられる一方で、忠臣の楠木正成を死に追いやった張本人として厳しい評価もなされた。内侍は義貞の戦死を聞いて琵琶湖に投身した、あるいは京都または堅田(滋賀県大津市)で義貞の菩提を弔ったなどの伝説が残されており、墓所と伝えられるものも複数存在する。
[編集] 稲村ヶ崎の太刀
鎌倉攻撃の際に、大仏貞直の守る極楽寺切通しの守りが固く、さらに海岸は北条方の船団が固めていたが、義貞が稲村ヶ崎で黄金造りの太刀を海に投じ竜神に祈願すると、潮が引いて干潟が現れて強行突破が可能になったという話が『太平記』などに見られ、文部省唱歌にも唄われた。
[編集] 銅像・遺品・碑
- 銅像は群馬県太田市の東毛歴史資料館前(東武鉄道伊勢崎線太田駅北口)に建てられている。
- 東京都府中市南武線分倍河原駅前ロータリーにも騎馬像がある。
- 遺品として、前述の兜がある。出土地には藩主松平光通により「新田義貞戦死此地」の碑が建てられた。
[編集] 子孫
室町時代を通じて新田氏は「朝敵」「逆賊」として討伐の対象となった。直接の子孫では、応永年間に義宗の子新田貞方が捕縛され、鎌倉で処刑されて断絶したと見られる。しかし、その子を称する新田貞政の子孫が堀江氏を称し、続いている。
また、一族である岩松氏も義宗の子を養子にしたと称した。また、その家臣で戦国時代に主家を下克上した横瀬氏(由良氏)も義貞・義宗の子孫を称している。江戸時代には新田一族を自称する徳川氏により、岩松氏が義貞の子孫として認定され、120石の交代寄合となった。岩松氏は維新後に新田姓に復し、現在も続いている。
[編集] 伝記
- 峰岸純夫『新田義貞』(吉川弘文館人物叢書、2005年) ISBN 4642052321
- 山本隆志『新田義貞 関東を落すことは子細なし』(ミネルヴァ書房日本評伝選、2005年) ISBN 4623044912