佐和山城
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佐和山城(さわやまじょう)は近江国犬上郡(滋賀県彦根市)にあった山城。犬上郡のみならず近江支配の重要拠点であり、16世紀の末には石田三成が居城としたことでも知られる。
[編集] 歴史
佐和山城を築城したのは鎌倉時代の豪族・佐保氏とされる。戦国時代には浅井氏の支城となり、元亀年間には城主磯野員昌が織田信長らと激戦を繰り広げた。しかし1571年(元亀2)2月、磯野は降伏し、代わって織田家配下の丹羽長秀が入城し、犬上郡支配の拠点とした。1582年(天正10)6月の本能寺の変後に行われた清洲会議では、明智討伐に功があった堀秀政に与えられ、その後、堀家の転封にともない堀尾吉晴が入城した。
1590年(天正18、ただし入府時期には異説あり)には豊臣五奉行の一人の石田三成が入城し、大規模な改修工事を行っている。その後も三成は改築を進め、山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの立派な城を築き上げ、「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と言わしめた。三成は奉行の任を全うするために伏見に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。
当主の石田三成が1600年(慶長5)9月15日に関ヶ原の戦いで敗れると、余勢をかった小早川秀秋軍が佐和山城を猛攻撃した。当主不在の中石田軍は必死の抵抗をみせたが2日後には玉砕。東軍兵士は「栄華を極めた三成はさぞ華美を尽くしたのだろう」と思い、我先にと城内に乱入したが、壁は粗壁、何の装飾もない質素な作りで、しかも三成邸にあったものは豊臣秀吉から送られた感謝状のみであったと伝わる(『甲子夜話』)。
石田氏滅亡の後、徳川四天王の井伊直政がこの地に封ぜられ入城した。三成は領地で善政を敷き、領民からも大変慕われていたので、直政はその威光を払拭するため新たに彦根城築城を計画した。しかし、直政は築城に着手できないまま1602年に死去。嫡子の直継が計画を継ぎ、佐和山城等の築材を利用し彦根城を建造。1606年、彦根城に移ったため佐和山城は破却され廃城となった。現在は壁・石垣等は彦根城に移ってしまったり破却されてしまい残っていないが、土塁などが残っている。