大友貞載
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大友貞載(おおともさだとし(又はさだのり)、? - 1336年(延元元年/建武3年))は、鎌倉時代、南北朝時代の人物。豊後大友氏の一族。立花氏の祖であり立花貞載ともよばれる。大友貞宗の子。
元弘3年/正慶2年(1333年)父に従って鎮西探題の北条英時を滅ぼし、父の急死後は家督を継いだ千代松丸(後の大友氏泰)を補佐して活躍した。建武2年(1335年)、足利尊氏が建武政権に反乱を起こすとはじめは新田義貞の尊氏追討軍に従ったものの、箱根・竹ノ下の戦いで寝返って尊氏に従い、義貞を敗走させた。しかし、京の戦いにおいて、偽りの投降をしてきた結城親光の襲撃にあい絶命、あるいは親光を返り討ちにし首をとったものの重傷を負ってまもなく死去したという。
貞載の後は弟の宗匡が継いだ。
立花山城の築城者とされる。