箱根・竹ノ下の戦い
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箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、南北朝時代建武2年(1335年)、足利尊氏勢と新田義貞勢の間で行われた合戦。後醍醐天皇が建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために新田義貞を派遣したが失敗し、建武政権は崩壊した。
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[編集] 原因
元弘3年/正慶2年(1333年)鎌倉幕府を打倒して成立した建武政権であったが、現実から乖離した政策の数々に武士は不満を募らせた。建武2年(1335年)発覚した西園寺公宗と北条泰家の陰謀は失敗に終わったが、これをきっかけに全国の旧北条氏所領で北条残党の蜂起が相次ぐ。特に7月信濃で諏訪氏の支援のもと蜂起した北条時行は、各地の反建武政権勢力を吸収し、足利直義を追い出し、鎌倉を占領する勢いを見せた。(中先代の乱)
これに対し、足利尊氏は時行を討つために自分を派遣するように後醍醐天皇に再三要請するが、 尊氏が自立することを怖れた後醍醐はそれを許可しなかった。 しかし尊氏は無断で関東に出兵する。後醍醐は追認で尊氏を征東将軍に任じた。 尊氏軍は時行軍を鎌倉から追い出し、時行は消息を絶ち、時行の反乱は鎮圧された。
戦後、尊氏は対立関係にあった新田義貞の所領を勝手に没収し、建武政権では恩賞方が行う恩賞として分配するなど自立の意思を示した。後醍醐は再三帰洛命令を出すが尊氏は無視し、義貞を非難する文書を送り返すだけであった。義貞は反論の文書を提出し、審議の結果義貞の訴えを認め、尊氏を討伐することに決定し、義貞に宣旨を下した。
[編集] 経過
11月、義貞は尊良親王を奉じ、軍を率い東海道を下った。尊氏追討軍には多数の公家も参加している。朝敵となることを恥じた尊氏が出家するなど足利側の士気が上がらなかったため、尊氏軍は直義が中心となり作戦行動に出る。義貞は三河矢作川、遠江鷺坂、駿河手越川原で迎撃に出た直義軍を打ち破り、伊豆国府(三島)を占領し、鎌倉へ着々と軍を進めた。義貞が箱根に迫ったとの報に接し、一時出家していた尊氏が直義の説得に応じ、戦線に復帰する。義貞は三島で軍を集結させると軍を二方面に分け、自らは搦め手軍を率いて箱根峠に進み、大手軍は実弟脇屋義助を大将に足柄峠へ進軍させる。尊氏軍は直義軍が箱根に布陣し、尊氏は竹ノ下前面の足柄峠に布陣する。
12月11日両軍は激突する。箱根方面では義貞軍が直義軍を押し気味に戦局が展開する。尊氏と義助の主戦場は足柄峠のすぐ西にある竹ノ下となった。尊氏の参陣で志気が上がる尊氏軍が押し気味に戦局が展開し、翌日これを見た大友貞載、塩谷高貞は尊氏軍に寝返り、義助軍は総崩れとなり敗走する。その報を受けた義貞は退路を断たれるおそれが出たため軍を撤退させる。これを見て佐々木道誉は尊氏軍に寝返り義貞軍も総崩れとなった。13日には伊豆国府を尊氏軍が奪回し、義貞軍は東海道を総崩れで敗走した。天竜川に架かる浮き橋を義貞が遅れてくる味方のために残したと『梅松論』には書かれているが、『太平記』には浮き橋を斬って退却したと逆のことが書かれている。
[編集] 影響
尊氏軍は義貞軍を追撃し、翌年1月3日近江瀬田唐橋で激突。搦め手の宇治で尊氏軍が勝利し、宮方は撤退し、京を巡る合戦に突入する。
尊氏の挙兵は成功し、室町幕府へと繋がる。建武政権は崩壊し、南朝に零落し、南北朝時代へ突入する。宮方の敗因は義貞の器量不足というよりも後醍醐の失政に失望した有力武士が尊氏に大挙して付いたことに起因する。旧守護クラスの有力武士を抑制することで成立しようとした建武政権は旧守護クラスが擁立した足利尊氏に破れることとなった。
[編集] 菊池千本槍
箱根・竹ノ下の戦いにまつわる伝承に菊池千本槍がある。新田勢に菊池氏が加わり、その場にあった竹やぶの竹を切り、小刀に結びつけ槍とした。元寇での戦いで、敵の武器に苦戦しながらも手柄をあげた菊池家の菊池武重の発案という。1,000の槍で3,000人を倒したという。