季瓊真蘂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
季瓊真蘂(きけいしんずい、1401年(応永8年) - 1469年9月16日(文明元年8月11日))は、室町時代の臨済宗の僧、鹿苑院蔭涼軒主。蔭涼軒真蘂とも。播磨国の赤松氏の支族にあたる上月氏の生まれだが、父母は不明。
雲頂院の叔英宗播に師事する。将軍との連絡役である相国寺鹿苑院内蔭涼軒主となり、将軍に近侍する側近となる。1441年に赤松満祐らが6代将軍足利義教を謀殺した嘉吉の乱の後に引退するが、8代将軍足利義政時代には伊勢貞親らとともに政治顧問となり、幕政に影響力を持つ。義政夫人の日野富子に子(足利義尚)が誕生した後は義政が次期将軍と約束していた弟の足利義視を排斥しようとして策謀し、三管領の1つの斯波氏の家督問題にも介入し、1466年(文正1年)に対立する細川勝元らによる文正の政変で貞親らとともに失脚する。1467年からの応仁の乱で近江国へ逃れる。
『応仁記』などでは否定的評価で書かれている。公式日記である『蔭涼軒日録』の一部を執筆。