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宮本 慎也(みやもと しんや、1970年11月5日 - )は、東京ヤクルトスワローズの選手、日本プロ野球選手会会長。ポジションは内野手。背番号は6。
[編集] 来歴・人物
- 現役の遊撃手の中では巨人の小坂誠と共に最高峰の守備能力を誇り、自分の守備範囲のボールは必ず捕る堅実な守備でゴールデングラブ賞を遊撃手部門で6回獲得している名手。ヤクルト入団当初から、守備力をみれば間違いなくレギュラークラスであると評価されていたが、スターティングメンバーとなる機会を得たのちは打撃力の進歩も著しく、2000年シーズンには3割を達成している。PL学園時代は立浪和義や片岡篤史らの1学年下にあたる。また、片岡とは大学でも同じ同志社大学野球部に在籍して、1年先輩と後輩の間柄で互いに活躍した。
- アテネオリンピック野球日本代表では、予選より長嶋茂雄代表監督よりキャプテンの指名を受け、予選では普段守らない二塁手のポジションを危なげなくこなし、オリンピックでは遊撃手としての守備、走塁もさることながらチームトップの打率5割と大活躍し、長嶋ジャパンを牽引した。そして、2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表にも井口資仁の代表辞退後に追加選出され、当初他の野手とイチローとの間にあった距離を埋めるべくイチローに助言し、精神的支柱となった。準決勝の韓国戦では代打として結果を残し、その後の守備では本職ではない三塁手として出場した(守備機会は無し)。決勝のキューバ戦ではその試合で2度エラーをした川﨑宗則に代わり、9回に本職である遊撃手として出場した(ただし宮本への交代は前の攻撃の回で川﨑がホームへ生還した際、右ひじを痛めたためでありエラーが原因で交代したわけではない。)。WBCの出場要請は大好きなパチンコをしている最中だったという。
- 小学校時代に生まれて初めてプロ野球関係者から野球を教わり、そのとき宮本にコーチをしていたのが阪神タイガースでかつて牛若丸と呼ばれたかの名遊撃手・吉田義男である。宮本が遊撃手にこだわるようになったのは吉田との当時の出会いが大きく影響しており、本人は今でも吉田から教わった遊撃手としての心得をしっかり守っているという。更に、ヤクルト入団後は同じく名遊撃手の大橋穣守備コーチと出会っている。
- 2001年には67犠打でシーズン最多犠打の日本記録を打ち立てたが、入団当初はバントはあまり得意ではなく、バントを失敗した際に顔面に打球を受けたこともある。
- 引退となる年齢が近づいているため、2005年ドラフトでは球団が超高校級遊撃手川端慎吾を2巡目で指名した。2006年は開幕から好調だったものの怪我での離脱が2度あった。
[編集] 略歴
[編集] エピソード
- 同じ大阪府北部出身で同世代のナインティナインの岡村隆史とも交友がありオフは他のヤクルトメンバーと一緒に草野球をしている。ナインティナインのオールナイトニッポンにも何度か出演している。その際「AVを見ても、何もせずにズボンをしまう事もある」と、すぐにばれる嘘をつき、岡村に「それは嘘でしょう!!」と突っ込まれたこともある。「この期に及んで、嘘をついてしまった(爆笑)」とコメントしていた。岡村曰く「超遊撃手」。
- そして、2003年の正月番組の放送中に、エロDVD鑑賞が趣味のひとつで好きな女優として及川奈央、星野ひかる等を挙げ、スタジオと視聴者を沸かせた。後に奥さんにその事で怒られたと、翌年放送の同番組で話していた。
- ファインプレーがいかにも守備でのファインプレーだったとなると、たとえアウトが取れたとしても、投手には打たれてしまった気分が残るから、難しい打球でも簡単に取っているように見えることが守備の能力として必要だ、という哲学を持つ。また、あまり飛び込まない。限界まで足を使い、送球の負担を減らす。
- 家族構成は妻、子供に二女と一男がいる。2006年7月に長男が産まれた。
- かつてスワローズの監督であった野村克也から「自衛隊」と呼ばれた。これは自衛隊は銃を撃たないことから打たないヤツと皮肉ったもの。
[編集] 通算成績(2006年シーズン終了時)
- 1308試合 打率.278 (4667打数 1296安打) 40本塁打 347打点 96盗塁 287犠打
[編集] タイトル・表彰
連続遊撃手守備機会無失策
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 日本プロ野球選手会会長
- (2006年~)
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- 先代:
- 古田敦也(1998年~2005年)
- 次代:
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