新田俊純
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新田 俊純(にった としずみ)【維新以前は 岩松 俊純(いわまつ としずみ)】(文政12年(1829年)6月8日- 明治27年(1894年)3月15日)は、江戸時代の交代寄合旗本。上野國新田郡下田嶋藩主岩松道純の長男(正室腹)。母は中山主馬信泰二女。童名は智丸、通称は岩松満次郎また兵部、主税。字を三俊、号を養山、また積翠、信天翁。官位は従四位(新政府)男爵。
天保14年11月15日、元服。安政元年12月27日、家督相続(「紹襲侯班」とある)。
幕府瓦解時には王臣として朝廷に恭順し、慶応4年(1868)5月8日朝臣となり、10月9日、中大夫拝命。 明治4年(1871)他の旧高家衆、旧交代寄合(一部高禄の領主は立藩し華族となる)と共に士族(新田家は岩鼻県貫属士族を経て群馬県士族)となる。明治16年8月13日華族に列し、同年9月14日従五位。同17年7月7日男爵となる。
当初よりそうであったが、明治維新の後、更に新政府に対して自らが新田義貞の嫡流であることを強く主張。幕府高家衆であった由良家とその分家の横瀬家(横瀬は由良の旧姓)の当主・新田貞靖(由良貞靖)、新田貞時(由良貞時)、横瀬貞固、横瀬貞篤と反目。しかし維新以後は共に新田氏の顕彰に努めたことが、群馬県社新田神社、別格官幣社藤島神社の創建につながり、記録に残っている。幕府の手前、江戸時代も本姓を「岩松」としながらも新田姓への執着があり、しばしば「新田満次郎」を名乗ったり書状に署名した。明治元年(1868年)、新政府に届けて正式に「新田姓」を称した。男爵となったのは長女・武子が維新の功労者・井上馨の室となったからだという世評がある。たしかに、新田氏正嫡論は甲乙つけがたく、当岩松系新田家と由良系新田氏とは共に家系が判然としないこともあって難航した。一般士族が旧幕時代の官位を返上させられた後も、当初新田貞靖・新田貞時父子が維新以後それぞれ「従四位」(元は従四位上侍従兼播磨守)、「従五位」(元は従五位下侍従兼信濃守)を保持し優勢だったのに比べて、俊純は無位無官であった。由良系新田氏の当主がその後も新田貞善、新田貞觀と四代にわたって早世したこともあり、当初不利だった岩松系新田家が優勢となり、受爵に結びついた。 明治27年(1894年)3月15日)逝去。享年66。正室は関千代子(関播磨守盛泰女)。 葬儀は東京で執り行われ谷中・天王寺に埋葬。「慈光院殿無染因浄俊純大居士」と諡号された。 後継新田忠純男爵(旧岩松誠丸)は次男である。
尚、記事の多くは所蔵の『新田家系譜』や「新田岩松家記録」などに拠り抽出作成。(新田義和 責)