新田貞康
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新田 貞康(にった さだやす)
江戸時代の高家旗本家・新田貞觀の義子(仮当主とする)。実は旧宇土藩(細川氏)藩士・武藤又右衛門の次男。童名は武藤新造。通称を新田新八郎。また、初め新田義知という。新田文庫主人。
明治16年(1883)、貞觀の遺子、貞成(のち義基)がまだ幼児の為、入りて東京府士族・新田家を後見する。(後見役であり、貞觀逝去後のことでなので貞康とは法律上の養子関係は無い)
明治維新後、新田家歴代当主が新政府に対して自らを新田義貞の嫡流であることを強く主張してきた。当初、有位士族であった当由良系新田家が無位士族の岩松系新田氏(ともに中大夫席)に対して優位にあったにも拘らず、新田貞靖、新田貞時、新田貞善、新田貞觀の四代が相次いで明治初年に卒去したため、無位旧准交代寄合衆である新田俊純(無位無官=維新時に「新田」に改姓。以前は岩松満次郎=岩松俊純)が華族に列せられ、男爵となった。
貞成が成長した後も新田氏を称し、当家の顕彰を怠ることなく相努め、家伝の文書を編纂し、「新田文庫」を開設。家蔵の記録により、『新田文庫抜萃略傳記』や「新田由良氏系統略記」(5章)を著し、更なる研鑽に努めた。
以上、「新田家記録」などにより提示。(新田義和 責)