旧皇族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
旧皇族(きゅうこうぞく)とは、1947年(昭和22年)に皇籍離脱した11宮家51名の皇族及びその男系子孫を指す俗称である。旧宮家ともいう。
離脱後に生まれた男系子孫については、過去に皇族であったことがないため「旧皇族の男系子孫」と呼ぶのが正確であるが、一般には彼らをも一括して「旧皇族」と呼んでいる。竹田恒泰によれば、宮内庁は1947年に皇籍離脱した11宮家51人を「元皇族」、その中で当時当主だった者を「旧皇族」と定義しているという。
目次 |
[編集] 概説
旧皇族は、すべて室町時代以来続く世襲親王家の筆頭であった伏見宮家の系統に属する傍系の皇族であり、南北朝時代の北朝第3代崇光天皇の末裔である。明治維新前後の時期、伏見宮第19代貞敬親王・第20代邦家親王の子どもたちが多数分家して独立の宮家を立てたことに起源を有する。
現在の皇室とは、伏見宮家から出た室町時代の第102代後花園天皇以後、血統が完全に分岐しているため、男系での血縁は非常に遠い。しかし一部の旧皇族が明治天皇および昭和天皇の皇女と婚姻しているため、女系では近親に当たる家も複数存在する。なお、昭和天皇の皇后の香淳皇后も旧皇族(婚姻当時は皇族)の久邇宮家の出身である。
[編集] 旧皇族の構成
- 伏見宮邦家親王の子孫
- 久邇宮朝彦親王の子孫
- 北白川宮能久親王の子孫
[編集] 皇室との近親関係
- 昭和天皇の皇女を通じて近親に当たる家
- 東久邇宮家
- 明治天皇の皇女を通じて近親に当たる家
- 香淳皇后を通じて近親に当たる家
- 久邇宮家
[編集] 皇籍離脱の経緯
1947年10月14日、11宮家51名は、GHQの指令により皇室財産が国庫に帰属させられたため、経済的に従前の規模の皇室を維持できなくなったことから皇籍を離脱した。
この動きには昭和天皇や一部の皇族からの抵抗もあり、香淳皇后の実家である久邇宮家や昭和天皇の長女成子内親王の嫁ぎ先である東久邇宮家など一部の宮家は皇室に残す案も出たが、最終的には、昭和天皇の実弟である秩父・高松・三笠の3宮家のみを残し、11宮家を皇籍離脱させることになった。11宮家51名の皇籍離脱は、法形式上は現行の皇室典範11条「その意思に基き、皇室会議の議により」若しくは同14条「その意思により」又は同13条「皇族の身分を離れる親王又は王の妃並びに直系卑属及びその妃は、他の皇族と婚姻した女子及びその直系卑属を除き、同時に皇族の身分を離れる」によってそれぞれ行なわれた。旧皇室典範制定以来、一貫して伏見宮系の皇族を皇室から離脱させようとする政策がとられてきたことからすれば、当然の結果であったともいえる。
ちなみに、1920年(大正9年)5月19日に勅定された「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」に従えば、日本国憲法が制定されず典憲二元体制が引き続き存続し、またGHQの指令による臣籍降下もなかった場合、一部は確実に皇族の身分にとどまっていたとされる。そのような伏見宮系の親王と王とは以下に限られる(括弧内の数字は「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」に基づいたみなし世数、※は存命者)。一部長男以外の系統が含まれているが、これは1906年(明治39年)までに設立された宮家の系統である。
伏見宮邦家親王 -(…) 山階宮晃親王(5) -芳麿王(6) -武彦王(7) 久邇宮朝彦親王(5) -賀陽宮邦憲王(6) -恒憲王(7) -邦壽王(8) -久邇宮邦彦王(6) -朝融王(7) -邦昭王(8)※ -梨本宮守正王(6) -朝香宮鳩彦王(6) -孚彦王(7) -誠彦王(8)※ -東久邇宮稔彦王(6) -盛厚王(7) -信彦王(8)※ 北白川宮能久親王(5) -竹田宮恒久王(6) -恒徳王(7) -恒正王(8)※ -北白川宮成久王(6) -永久王(7) -道久王(8)※ 伏見宮貞愛親王(5) -博恭王(6) -博義王(7) -博明王(8)※ 閑院宮載仁親王(5) -春仁王(6) 東伏見宮依仁親王(5)
ただし、以上はあくまでも典憲二元体制が存続し、宮務法が存在しつづけたという仮定を前提として、準則をそのまま適用した場合のものである。準則は1946年(昭和21年)12月27日の皇室典範増補の一部改正にあわせて廃止されているので、日本国憲法施行後の1947年(昭和22年)10月の旧皇族臣籍降下の全部又は一部が何らかの原因で実現しなかった場合は、この準則が適用される余地はなく、1946年に成年となった治憲王以降は準則廃止に伴い適用対象外である。また、大日本帝国憲法及び明治皇室典範の体制が存続していた場合も、以下の理由から多くの旧皇族が皇籍に留まっていた可能性も否定できない。
- 枢密院の会議筆記にも「特殊ノ事情アル場合固ヨリ終始一律ヲ以テ揆シ難キハ止ムヲ得サル所ニ属ス」(伊東顧問官の審査報告)とあるように、枢密院は特殊の事情があるときは必ずしもこの準則に拘束される必要はない(当然、これがために準則の全部又は一部を改正する必要もない)との見解であった。この点、宮内省としては多少異論があったようだが、この準則の拘束力を形式的に評価する場合は、この見解は間違えなく正しい。
実際1907年以前には、明治天皇の皇女である内親王との婚姻により、嫡男以外の王に対しても宮家設立を認めるなどの措置がとられている。これは当時、明治天皇の皇子である親王が東宮(後の大正天皇)のみであった状況であり、不測の事態における、皇位継承者の確保の目的があったものと考えられる。 - 上記の準則は、当時大正天皇に皇男子が4人あったという状況で定められたものである。すなわち、皇位継承者が消滅しかねない状況においては準則を改正し、8世王までとしていたものを延長する可能性があったこと。
[編集] 皇籍離脱後の旧皇族
皇籍離脱後は、それぞれ宮号から「宮」の字を除いたものを氏として名乗り、民間人としての生活を始めた。慣れない商売に手を出して失敗したり、財産税を払い切れないために家屋敷を安価で買い叩かれるなど、苦難の生活を送った者が多い。
皇籍を離脱した後も皇室の親戚という立場には変わりがなく、皇室の親族が所属する親睦団体の菊栄親睦会に所属して現在でも皇室と親しく交流を続けている。久邇朝融や東久邇成子など、一部の旧皇族は特例として豊島岡墓地に葬られている。
[編集] 旧皇族出身の著名人
- 東久邇宮稔彦王(皇籍離脱後は東久邇稔彦)(第43代内閣総理大臣)
- 竹田宮恒徳王(皇籍離脱後は竹田恒徳)(日本オリンピック委員会会長、日本馬術連盟会長)
- 竹田恒和(日本オリンピック委員会会長)
- 久邇邦昭(神社本庁統理、伊勢神宮大宮司)
- 北白川道久(伊勢神宮大宮司)
[編集] 旧皇族邸および跡地の利用
- 朝香宮邸:白金台・東京都庭園美術館となる。
- 賀陽宮邸:現存せず、三番町の跡地には千鳥ケ淵戦没者墓苑がある。
- 閑院宮邸:現存せず、永田町の跡地には衆議院議長公邸・参議院議長公邸がある。
- 北白川宮邸:現存せず、高輪の跡地には新高輪プリンスホテルがある。
- 久邇宮邸:邸宅の一部が聖心女子大学構内久邇ハウスとして残る。
- 竹田宮邸:高輪プリンスホテル貴賓館として現存する。
- 梨本宮邸:現存せず、渋谷の跡地には東京都児童会館がある。
- 東久邇宮邸:終戦の日にテロに遭い延焼。高輪の跡地にはホテルパシフィック東京がある。
- 東伏見宮邸:現在の常陸宮邸。
- 伏見宮邸:現存せず、紀尾井町の跡地にはホテルニューオータニ東京がある。
- 山階宮邸:現存せず、富士見町の跡地には衆議院議員九段宿舎がある。
[編集] 旧皇族の皇籍復帰問題
1965年の秋篠宮文仁親王の誕生以来2006年までの41年間、皇室では9人続けて女子が誕生しており、男子の誕生がなかった。一方、現行の皇室典範の規定では、男系の男子しか皇位を継承することができない。このため、近い将来に皇位継承者が存在しなくなることが予想された。この問題へのひとつの対処として、旧皇族から皇族を新たに創出して皇位継承者とする案が提起されたが、世論の大勢の支持するところとはなっていない。今後の議論が待たれる。(詳細は別項「皇位継承問題」を参照のこと)。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 「帝国憲法改正関係研究資料(第1巻)」中「19.皇族の降下に関する施行準則」「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」の条文、解説、系図等を収録した文書。外務省「外交記録公開文書検索」のサイト内。閲覧にはDjVuブラウザプラグインが必要。
また、JACAR(アジア歴史資料センター)では枢密院における審議の記録である「皇族ノ降下ニ関スル内規ノ件」(枢密院会議筆記・大正九年三月十七日―レファレンスコード:A03033626200、枢密院会議文書D(会議筆記):大正・昭和)をはじめとした枢密院の関係文書が閲覧できる。