東久邇宮稔彦王
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生年月日 | 1887年(明治20年)12月3日 |
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出生地 | 京都府 |
出身校 | 陸軍大学校 |
学位・資格 | 王 陸軍大将 従二位 大勲位菊花大綬章 功一級金鵄勲章 |
前職 | 陸軍近衛歩兵第三連隊連隊長 陸軍歩兵第五旅団旅団長 陸軍第二師団師団長 陸軍第四師団師団長 陸軍航空本部本部長 陸軍第二軍司令 軍事参議院軍事参議官 陸軍防衛総司令官 |
世襲の有無 | (皇族) |
在任期間 | 1945年(昭和20年)8月17日 - 1945年(昭和20年)10月9日 |
選挙区 | 皇族議員(貴族院) |
当選回数 | |
所属(推薦)党派 | なし |
東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年12月3日 - 1990年1月26日)は、日本の第43代内閣総理大臣(在任:1945年8月17日-1945年10月9日)で、日本の陸軍軍人、皇族唯一、戦後初の内閣総理大臣。階級は陸軍大将。位階は従二位、勲等功級は大勲位功一級。血液型はO型。
目次 |
[編集] 生涯
久邇宮朝彦親王の第九王子で、兄に、賀陽宮邦憲王、久邇宮邦彦王、梨本宮守正王、久邇宮多嘉王、朝香宮鳩彦王、甥に、賀陽宮恒憲王、久邇宮朝融王、東伏見慈洽、宇治家彦、梨本徳彦、朝香宮孚彦王、姪に、香淳皇后、李方子がいる。1906年に明治天皇の特旨により東久邇宮家を創立し、1915年に明治天皇の第九皇女・泰宮聡子内親王(のち東久邇聡子)と結婚した。聰子妃の間には、盛厚(もりひろ)王、師正王、彰常王、俊彦王の4人の男子がいる。
軍歴では、1914年に陸軍大学校を卒業し、昭和9年8月1日に親補職の第4師団長となる。その後、大将に昇った。
第二次世界大戦敗戦直後、戦後最初の首相(いわゆる終戦内閣)となり(陸軍大臣を兼務)、「一億総懺悔論」を唱える。降伏文書の調印や陸軍大臣を兼務して陸軍解体など、敗戦処理を任務としたが、民主化政策の遂行を怠ったことなどにより、1945年10月4日にGHQから「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられ、それを実行できないとして翌日総辞職した。在任期間54日は日本政治史上最短である。
1947年10月14日に皇籍を離脱し、以降は東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ)と名乗った。1950年4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府により「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告されたために実質解散となった。その後、色々な事業を行なったが、いずれも成功はしなかった。
1960年、日米安全保障条約の改定に際して、同じ首相経験者の石橋湛山、片山哲とともに、岸信介首相(当時)に退陣を勧告している。
102歳まで生き、世界の首相経験者としては最も長命かつ唯一100歳を超えて他界した人物であるとしてギネスブックにもその名が掲載されている。没後「旧皇族」であるため特例として豊島岡墓地に葬られた。
[編集] 内閣総理大臣
日本がポツダム宣言を受諾することを昭和天皇が国民に伝えたその翌々日の1945年8月17日、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮が首相に任命された。日本の無条件降伏に納得しない陸軍の武装を解き、連合軍の本土進駐を円滑に進めるためには、陸軍大将でもある東久邇宮が相応しいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。副総理には国民的に人気が高かった近衛文麿、外務大臣には重光葵、大蔵大臣には津島寿一が任命されたが、この時点ではまだ軍部は廃止されておらず、陸軍大臣および海軍大臣も任命された。
日本の降伏が告知されたものの、依然として陸海軍は内外に展開しており、東久邇内閣の第一の仕事は、連合国の求める日本軍の武装解除であった。同時に、連合国による占領統治の開始が滞りなく行われるように、受け入れ準備に万全を期すことが重要な任務であった。
他方、首相として、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望も示した。しかしながら内務省の反対により政治犯釈放さえも実現せず、占領が本格化する前のわずか54日間の過渡的な政権であった。東久邇宮の発言として後世の史家が指摘するのは、9月5日に国会で行われた施政方針演説の以下のくだりである。
- 敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各〃其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります
総懺悔すべきとする東久邇宮の考え方は、過去の政治指導者こそが責任を負うべきとの重光外務大臣の考え方とは対照的であった。結局、重光外務大臣は、こうした意見の相違もあり辞任し、それも1つのきっかけとなって戦前閣僚を中心とする退陣論が高まり、10月5日、東久邇内閣は総辞職するに至った。
[編集] 評価
首相在任期間は54日と最短であるものの、非常に困難な時期に首相となった。玉音放送の時点では戦争継続を唱える軍人も少なくなかった(宮城事件参照)。彼は十数日で国内を「降伏」で統一し、上陸してきたGHQには誰も危害を加えることはなく、速やかに日本の武装は解除された。
[編集] 首相としての表記
宮家皇族の名前を公式表記する場合は宮号を冠さず「名+身位」とするのが正式なものであり、官報においては「内閣総理大臣 稔彦王」と表記された。他方、当時の新聞報道等では「東久邇首相宮(ひがしくにしゅしょうのみや)」などと表記された。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 広岡裕児 『皇族』 ISBN 4643980745 ISBN 4122039606
[編集] 外部リンク
- 第88回帝國議会(臨時会)戦争集結ニ至ル経緯竝ニ施政方針演説(1945年9月5日)
内閣総理大臣 | ||
第42代 鈴木貫太郎 |
第43代 1945 |
第44代 幣原喜重郎 |
- 東久邇宮
- 初代: 稔彦王
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- 先代:
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- 次代:
- (皇籍離脱)