桜花 (航空機)
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桜花(おうか)は大日本帝国海軍が太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に開発した特攻兵器である。昭和20年より実戦に投入された。専門に開発され実用化された航空特攻兵器としては世界唯一の存在である。
桜花11型性能諸元表 | |
型式番号: | MXY-7 |
全長: | 6.066m |
全幅: | 5.12m |
全高: | 1.16m |
自重: | 440kg |
全重量: | 2270kg |
速度: | 1040km/h(急降下突撃状態の速度) 648km/h(水平時最大速度) |
航続距離: | 37km(投下高度によって変化)(⇒高度7千で投下して約60km) |
主武装: | 1200kg徹甲爆弾 |
副武装: | 無し |
出力: | 推力800kg×3(ただし毎本の稼働時間は9秒) |
乗員: | 1名 |
目次 |
[編集] 概要
桜花は小型の航空機形状の特攻兵器であり、機首部に大型の徹甲爆弾を搭載し、ロケットまたはジェット(ジェットエンジン装備型は実用化されなかった)の推進力と滑空で敵艦に体当たりを行う。体当たりにあたっては、搭乗した乗員が誘導を行う。
有人誘導式ミサイルともいえ、正規軍の制式武器としては世界に類を見ない「人間爆弾」である。
[編集] 開発の経緯
発案者は海軍航空偵察員であった大田正一特務少尉であり、少尉は、このアイデアを東大航空研究所でさらに具現化した後、空技廠(海軍航空技術廠)に持ち込んだ。但し、この発案から開発に至る経緯については当時の通例としては考えられないことが数多く起きており、未だに本当に発案者が彼であったのかどうかは論議となっている。ただ、どちらにしろ開発の端緒をつけたのは彼である、ということは確かである。
昭和19年八月初頭、空技廠に第1081航空隊付の一少尉が尋ねてきた。廠長和田操中将に面会(通常ありえない)し、人間爆弾の構想を説いた。これに対して同席していた飛行部設計課設計主任の山名正夫技術中佐(彗星、銀河の設計主務者。戦後、東大教授)、設計課第3班班長三木忠直技術少佐は当初「技術者としてこんなものは承服できない、恥です」と強硬に反対し、和田中将も大田少尉に航空本部の了解を取るように言った。
これを受けた航空本部は軍令部に意見を質した。軍令部では当時特攻兵器研究の真っ最中であったためこの提案に飛びついた。特に源田実中佐が即座に動き及川軍令部総長の了解を迅速に取り付け昭和19年8月16日、この新兵器は(機密保持のため)発案者の名前から「マル大(ダイ)」という名称でよばれることとなり、この兵器の正式な試作命令が空技廠に下った。空技廠は山名技術中佐を主務者に任命、実際の設計は、三木忠直技術少佐と服部六郎技術少佐等が担当した。
特攻兵器であるため簡易生産が出来るよう材料は木を多用、構造は出来るだけ簡素化することとした。且つ既存の翼断面を流用するなどした上、大田少尉が持ち込んだ東大航空研究所の谷一郎教授と木村秀政所員の手による風洞実験結果、空力計算書、基礎設計書など基礎資料(一少尉の提案に航研がここまで協力したのも謎といわれる根拠の一つ)を基に試作命令から一週間で基礎図面を書き上げ、その一週間後には一号機を完成させてしまった。
当初の基礎設計案より実機の変更点としては
- 垂直尾翼を当初の1枚から安定性確保のため双尾翼にしたこと(母機への搭載を容易にする意味もあった)
- 爆弾重量が機体重量に占める割合が設計案では無理だったため爆薬重量を落とした(80%→56%)こと。これには固体ロケットの重量が3本で500kgにも及んだことも影響した。桜花の爆弾とロケットを除いた自重は450kg程度に過ぎない
- 大田案では、動力には秋水と同じ特呂二号薬液ロケット・エンジンが予定されていたが、開発途上で性能も不安定であったため、火薬ロケットに変更された
- 強度上・重量配分上どうしても尾部と垂直尾翼部にはジュラルミンを使わなければならなかったため完全な鋼・木混合製ではないこと
- 突入時に爆弾が確実に起爆するように(無駄死ににならないため)信管を2個付けた
等が挙げられる。
[編集] 運用法
桜花11型は独力で離陸することができず、一式陸上攻撃機(一式陸攻)を改造した一式陸攻24型丁と呼ばれる改造機を造り、アメリカ艦隊近くまではその下部に搭載して運び、そこから発進するという方法をとった。しかし、桜花の重量は非常に重く、陸攻の離陸可能重量の限界ギリギリであり、そのため陸攻の運動能力がさらに制限されることとなった。後述する神雷部隊に指揮官として着任した野中五郎少佐は「この槍、使い難し」と嘆いたという。本来、一式陸攻の通常攻撃での搭載爆弾重量は800kgであってその状態でさえ最高速度は400km/h強であった。これが桜花(約2.3t)を積むと300km/h以下に落ちたといわれる。対する敵艦載戦闘機は一番遅いグラマンF6Fでさえ最高速度が600km/h近い機体である。速度で半分以下、機動性は比べ物にならないとくれば桜花攻撃は母機乗員にとって桜花と共に死にに行くようなものであった。
野中少佐は「俺はたとえ国賊と罵られても、桜花作戦だけは司令部に断念させたい。敵に辿り着けると思うか? 援護戦闘機が陸攻編隊を守りきれると思うか? 仮に敵まで辿り着いたとしよう。ところが司令部は桜花を投下した攻撃機は速やかに帰りまた出撃するのだといっている。そんなことが出来るか。桜花投下と同時に自分も他の目標に体当たりしてやる」と公然と桜花批判、司令部批判をするようになった。 そして、「日本一の俺が最精鋭を連れて行っても桜花作戦は成功しない、必ず全滅する」と、現実を直視せず皮算用ばかりしている上層部に対し血を吐くような批判を同僚にしている。
その上訓練方法に関しても問題が多かった。桜花の訓練は零式複戦と零戦による滑空訓練(零戦は低速安定性が高いため比較的操縦しやすかった)を行なった後、桜花での単独滑空訓練を行なうようになっていた。初期の訓練は桜花の機体の前部、後部に爆弾とロケットの同じ重さの錘(水)を乗せた練習機で一式陸攻から切り離して機体に付けた橇で着陸滑走するようになっていた。滑空機であるからこそ一度失速状態に陥ったり、滑空場への進入に失敗したりすることは、すなわち事故を意味した。さらに桜花自体が、高速で「ある程度操舵が出来るように」しか出来ておらず、安定性を司るべき尾翼に至っては着陸進入を考慮して細かい安定性を備えた翼型になっていない(ただの平板)上、元々バランスの悪い機体であったため訓練で事故が起きて死傷者が出ることは日常茶飯事であった。特に初期の訓練においては桜花の一式陸攻からの切り離しがあまり良くないのも影響して、切り離しから一挙に2~300m降下してから滑空、着陸速度は180km/h程度という極めて難しいもので、特にピッチ制御を水バラストの放出によって行なっていたため、水放出コックの操作ミス(前後の水バラストタンクのうち、後側から先に放出しないと機首下げ姿勢を取れない)での殉職事故が発生した。後に水バラストの搭載をやめて滑空訓練を行なったが、基本的に訓練は1人1回のみであった。余りにも危険すぎるというのがその理由であったといわれる。尚43型では複座型の練習機が開発された。
桜花は、大型の徹甲爆弾(重量1.2t)を搭載した機体を敵艦に直撃させる事で大きな損害が与えられると期待されたが、実際は母機ごと制空戦闘機によって多くが撃墜されてしまい、接敵は困難を極めた。桜花の航続距離は、滑空とロケットエンジン(数秒間しか燃焼時間がないが)を併用して飛行するため、切り離し高度に大きく左右される。このため、高高度飛行(大型機が急上昇するのは不可能)をせざるを得ず、米軍は遠距離からレーダーで母機を探知し、余裕を持って迎撃できたのであった。また、桜花攻撃の失敗はその母機の搭乗員の未帰還と同義語であり、一機あたり7~8名の母機の搭乗員を一挙に失う危険性は作戦前から認識されていた。
[編集] 実戦
本来、桜花はフィリピン決戦で投入される予定であったといわれる。しかし、ある程度の機体数が完成し搭乗員の2ヶ月の促成訓練が終わった最初の部隊は移動途中、空母信濃と共に潮岬沖で沈んだ。その後後続部隊が空母雲龍でフィリピンへ運ばれるはずだったがこの部隊もまた、到着前に空母諸共海没の憂き目に会う。どちらにしろ、輸送時期はフィリピン戦の帰趨が決まってからであり、例え到着しても攻撃の機会はなかったであろうといわれている。一式陸攻の性能もさることながら、護衛機を十分につけなければ攻撃は成功しないであろうというのは如何な日本軍といえども現場レベルではわかりきっており、使う機会を得ぬまま沖縄戦に突入していく。
[編集] 悲劇
桜花特攻の専門部隊として編成された第721海軍航空隊(通称神雷部隊、司令兼副長は岡村元春大佐)は、3月18日から始まった九州沖航空戦4日目の1945年3月21日に岡村司令を始めとする現場部隊の「護衛機不足により成算なし」との反対を押し切って第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将の"断固出撃すべし"の令により第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊(野中五郎少佐指揮:一式陸攻18機(うち隊長機3機は桜花未搭載)、桜花15機、護衛の零戦55機の編成)を沖縄攻撃中の米機動部隊に向けて、桜花攻撃部隊として初出撃させた。 この出撃の決まった作戦会議では護衛として出せる掩護戦闘機が近隣の基地からの応援を含めても少なすぎることから一時は出撃中止になりかけたという。しかし、宇垣長官はこの出撃の前に、銀河による特攻隊「梓隊」で出撃を散々延ばして失敗していた。それを鑑みての出撃決定であったことが彼の日記から見て取れる。この出撃決定が下された作戦会議の後、退席した野中少佐は隣にいた神雷部隊の飛行長 岩城邦広少佐に「湊川だよ、飛行長」とポツンと言い、そして還って来なかった。出撃前から全滅を覚悟していたと思われる。
結局この部隊は進撃中に敵艦隊にレーダーで捕捉されてしまい、敵艦隊の遥か手前でF6F戦闘機28機に迎撃され、陸攻隊は18機全機未帰還、零戦隊は30機中10機が撃墜され全滅という結果に終わった。当初、護衛機として零戦55機が出撃したがエンジン故障などで25機も途中で引き返し、最終的に30機に減ってしまったのが致命的であった(事前の計画では必要最小限援護機は72機と見積もられていた)。
桜花隊:三橋謙太郎大尉ほか14名、攻撃711飛行隊:攻撃隊指揮官 野中五郎少佐ほか134名、戦闘306飛行隊:伊澤勇一大尉ほか6名、戦闘307飛行隊:漆山睦夫大尉ほか2名が未帰還となった。
実際の戦闘では、艦隊のレーダーにより誘導され待ち受けていたホーネット隊F6F16機及びベローウッド隊F6F12機に上空から攻撃を受け、戦闘機隊は数では互角ではあったが、満足な護衛が出来る状態ではなく、むしろ自分達が生き残るのに精一杯の戦闘を繰り広げており、丸裸となった陸攻隊は次々と被弾墜落していった。18機の母機が全機撃墜されるのにかかった時間は僅か20分であった。
その際の後ろを取られ必死で左右に滑り射線を交わしつつ、ついに被弾して一瞬で火を噴き爆発、墜落する桜花を吊った一式陸攻の姿を映したF6Fのガンカメラ映像が今も残っている。
ただでさえ燃えやすい"ワン・ショット・ライター"の異名をとる一式陸攻がその鈍重さを、桜花という錘でさらに鈍重にしたとき、如何な戦闘機でも数で互角では守りきれるものではあるまい。ましてや戦争末期で護衛機部隊にベテランパイロットが殆どいない状況で、且つ敵戦闘機の質と量に零戦の性能を凌駕されている状態では、状況判断に経験と的確さを求められる護衛戦闘は戦闘機隊にはできまいというのは、野中のような緒戦から活躍しニューギニア戦線で戦ってきたベテラン爆撃機乗りにとって火を見るより明らかであったろう。 この司令部の仕打ちに対する無言の抗議からか、出撃後陸攻隊からは一本の電報も入らず、司令部では帰還した戦闘機隊から直接報告を聞いて戦況を把握する有様だったという。
また、神雷部隊の創設者でもあり指揮官でもあった特攻推進派の岡村大佐でさえ成算無しと中止を進言しているにも拘らず出撃させた上層部の態度も当時を物語っている。結果は予見されていた、というより少しでもそれまでの戦訓と戦闘結果を考えれば結果は火を見るより明らかであった。一式陸攻の鈍重さと防御の脆さ、敵警戒網の厚さをはじめとするそれまでの戦訓を引いた作戦会議での反対意見の多さがそれを物語っている。それにも拘らずその反対を押し切って"今出撃させなければ使う機会がない"とまで言い切った宇垣中将を始めとする当時の特攻を命じた上級指揮官達の思考が如何に指揮官としての思考ではなかったかといういい例であろう。
宇垣長官の書いていた日誌『戦藻録』において彼自身が記述しているところによると、桜花隊出撃前の心境として「敵ハ相当大ナル損害ヲ蒙リタルモノノゴトク上空警戒モ少ナシ」とそれまでの3日間の特攻攻撃で相当の被害を敵に与えたものと誤認しており(実際は空母一隻を大破させた程度)、「18日以来、本特攻兵力ノ使用ニ機ヲウカガヒ続ケ、何トカシテ本法ニ生命ヲ与ヘントシタリ」と、既に作戦目的が何とかして桜花作戦を敵撃滅の切り札にしたいというものに変わっていて、特攻によって敵が撃滅できると信じていた節がある。つまりはレイテ時に大西中将が戦果をあげる為に"止むを得ず"取った"外道の戦法"(特別攻撃隊参照)がこの時点では日本軍としては"正攻法"に変わっていることを意味している。また、部下の生命を無視してでもこの戦法を成功させたいという戦果と戦法の優先順位が完全に逆となっている思考になっていることも窺え、まず"戦法ありき"で"戦果"は二の次なのである。更に「今ニシテ機ヲ逸セバ再ビウルシーへ梓隊ノ遠征ヲ余儀ナクサレ、シカモ成功ノ算大ナラズ」と失敗に終わった梓隊の結果が今回の出撃決定に繋がったことも暗に認めている。
結果として緒戦以来数々の戦果を挙げてきた当時では数少ない歴戦の現場指揮官を無為に失った上、その部下であった100名を越すベテラン爆撃機乗りを一挙に失うという取り返しのつかない損失を招いてしまったわけである。その見返りとして得られたものは何もなかった。
護衛を放棄して戦闘機との戦闘に入った戦闘機隊の戦果は、僅か撃墜1機、撃破1機。味方未帰還11機(内1機は離陸直後に事故で喪失)であった。
[編集] 見合わぬ戦果
この戦い以降は、流石に戦訓により昼間大編隊による攻撃を断念し、薄暮及び黎明時に陸攻少数機が1~2機ずつに別れての出撃を主とし、10次にわたって攻撃を敢行した。これと併行して桜花隊搭乗員で編成された建武隊(零戦52型新造機に50番(500kg)爆弾を搭載したもの)による特攻も行われた。最終的に確認されている桜花が与えた確実な戦果は、沖縄戦において駆逐艦(マナート・L・エイベル)撃沈1隻、その他数隻に損傷を与えるにとどまった。前者のマナート・L・エイブルの時は命中した瞬間、艦体中央部が粉々に消し飛んで真っ二つに折れ、一瞬で沈没させる事が出来たが、後者の中には駆逐艦に命中したものの、鉄板の薄い艦首部だったために機体が炸裂せず貫通、そのまま海に突っ込んでから爆発したという不運な例もあった。
なお、1945年4月12日に駆逐艦マナート・L・エイベルを撃沈したのは、土肥三郎中尉が操縦する桜花であったと言われている(土肥中尉操縦の桜花の母機=一式陸上攻撃機(桜花を発進させた後、被弾しながらも無事に鹿屋基地に帰投)の機長は、三浦北太郎少尉(のちに、6月22日の神雷部隊の最後の出撃の際に戦死)であった)。
最終的に10回の出撃が行なわれ桜花特攻での戦死者はパイロット55名、その母機の搭乗員368名に上った。これに対し戦果は撃沈1隻、損傷5隻。これらは全て駆逐艦以下の艦艇であり、余りにも犠牲に見合わぬ戦果であった。
[編集] 桜花のバリエーション
作戦の成功率が低いのとは裏腹に、軍部は桜花のさらなる増備と改良を計画していた。
[編集] 21型
作戦の成功率を高めるため母機を「銀河」に変更したもの。銀河の機体形状に合わせて若干の改良が加えられている他、自重の軽減のため、爆弾の搭載量を減らして(1200kg→800kg)いる。最初の試作機は実際に「銀河」を母機として飛行試験が行なわれたが、「銀河」からの分離発進後にエンジンの不調により墜落し、搭乗していたパイロットが殉職している。その後、試験段階で終戦を迎えたため、実戦には参加していない。
[編集] 22型
発進後の飛行距離の増大を目指して、21型の四式噴進器を「ツ11」に変更したもの(レシプロエンジンでコンプレッサーを駆動し、燃焼室内に燃料を噴射するというカンピーニロケットの一種である)。21型同様試験段階で終戦を迎えたため、実戦には参加していない。
[編集] 33型
母機をさらにパワーのある連山に変更したもの。同時に桜花自体のエンジンも強化されている。連山自体が増備されなかったため、こちらも量産されなかった。
[編集] 43型
陸上からのカタパルト発進を行う予定で開発された。モックアップが概成したところで終戦を迎えている。この型では爆弾重量は600kgに減らされていた。本土決戦に備えて千葉県南房総市一帯に桜花基地が建築されていた。安房郡三芳村(現在の南房総市)の智恩院に桜花の発射レールが保存されている。
練習型は完成していた。
[編集] 桜花が展示されている場所
桜花はアメリカ合衆国ワシントンD.C.にある海軍博物館とスミソニアン博物館(Steven F. Udvar-Hazy Center)で実物を見る事ができる。英国マンチェスターにある産業博物館でも見ることができるが、主翼が多少小さいように感じられる。
日本国内では、埼玉県入間市にある航空自衛隊入間基地内の修武台記念館に一機が保存されている。ちなみにこの記念館は2005年12月に閉館し、2010年度にリニューアルして開館する予定である。この際も桜花は展示される予定だ。 また、靖国神社などで複製物を見る事が可能である。
なお、連合国側からは日本語の「馬鹿」にちなんだBAKA BOMB(単にBAKAとも)なるコードネームで呼ばれていた。
[編集] 桜花を主題とした作品
[編集] 漫画
- 作品を通して数回題材になった。但し、物語中に史実と異なる部分がある。
[編集] 映画
- 森永健次郎 監督『花の特攻隊 あゝ戦友よ』(日活、1970年)
[編集] 小説
- 阿川弘之『雲の墓標』(新潮文庫、1990年改版) ISBN 4101110026
- 特攻隊の青年を描いた小説だが、桜花部隊が登場する
[編集] 桜花が違う用途で描かれている作品
- 荒巻義雄『紺碧の艦隊』第7巻「紅海雷撃作戦」に、戦時増産型迎撃用小型局地噴式戦闘機として登場(架空兵器)(主動力はターボジェット、緊急加速用に固体式ロケット搭載、武装:40mm機関砲×1門、カタパルト発進(+固体ロケットブースター))。
[編集] 参考文献
[編集] メカ
- 野原 茂『「秋水」と日本陸海軍ジェット、ロケット機』(モデルアート社、1998年11月号臨時増刊 No.525)
- 第三章 空技廠 特別攻撃機「桜花」 p133~p166
[編集] 戦史
- 内藤初穂『極限の特攻機 桜花』(中公文庫、1999年) ISBN 4122033799
- 木俣滋郎『桜花特攻隊 知られざる人間爆弾の悲劇』(光人社NF文庫、2001年) ISBN 4769823169
- 柳田邦男『零戦燃ゆ 6』(文春文庫、1993年) ISBN 4167240149
[編集] 証言集
- 佐伯正明 ほか『証言・昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション12 恐怖の人間爆弾「桜花」発進準備よし』(光人社、1991年) ISBN 4769805462
- 文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』(文藝春秋、2005年) ISBN 4163668608
- 半藤一利『戦士の遺書 ~太平洋戦争に散った勇者達の叫び~』(文春文庫、1997年) ISBN 4167483068
[編集] 外部リンク
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