永井尚志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
永井 尚志(ながい なおゆき、1816年12月21日(文化13年11月3日) - 1891年(明治24年)7月1日)は、幕末期の幕臣。通称は岩之丞。号は介堂。官位は玄蕃頭。名前の読みはなおむねとも。
[編集] 経歴
三河国奥殿藩主松平乗尹とその側室の間に生まれ、25歳の頃旗本永井尚徳の養子となった。
嘉永6年(1853年)、目付として幕府から登用される。翌年には長崎海軍伝習所の総監理として長崎に赴くが、安政4年(1857年)にそれまでの功績を賞されて呼び戻され、岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられた。そしてロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった。その功績で軍艦奉行に転進したが、直後の将軍後継者争いで徳川慶喜を支持する一橋派を支持したため、井伊直弼の安政の大獄で罷免され、失脚してしまった。
文久2年(1862年)、京都町奉行として復帰し、元治元年(1864年)には大目付となる。文久3年(1863年)の八月十八日の政変、元治元年(1864年)7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。慶応3年(1867年)には若年寄にまで出世する。大政奉還においても交渉能力を発揮した。鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ逃げ戻り、その後は榎本武揚と共に蝦夷へ向かって函館奉行となり、新政府軍と戦った。しかし、敗れて榎本と共に自殺しようとしたが、周囲に止められて降伏した。
1872年、明治政府に出仕。開拓使御用係、左院小議官をへて、1875年元老院権大書記官。
1891年、76歳で死去。
尚志は、戊辰戦争で幕府軍が敗れることを知っていたのに、最後まで忠誠を尽くして戦った忠臣として高く評価されている。また、旗本から若年寄に栄進したのは、唯一の異例である。
また養子である岩之丞尚忠の娘、夏子は樺太庁長官となった平岡定太郎に嫁ぎ、その孫が平岡公威。すなわち三島由紀夫のことである。