源雅信
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源 雅信(みなもと の まさのぶ、延喜20年(920年) - 正暦4年7月29日(993年8月24日))は、平安時代の貴族。宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で宇多源氏の祖。母は藤原時平の娘。法名は覚実。承平6年(936年)臣籍に降下して従四位下が与えられる。兄弟には源寛信、大僧正寛朝、源重信、大僧正雅慶、などがいる。子には源時中、源時通、源時叙(寂源)、源扶義、源時方、源通義、大僧正済信、倫子などがいる。
938年に侍従となり、942年には右近衛権中将、948年には蔵人頭、951年には参議へと順調な出世を遂げている。更に円融天皇の信任を得て970年には中納言、972年には大納言となり貞元2年(977年)には右大臣、貞元3年(978年)には左大臣となり、死去までの15年間その地位を守った。正暦2年(991年)、弟の重信は右大臣に就任し、雅信が没する年まで兄弟で左右大臣を務めている。没後に正一位太政大臣を追贈された。
また、父敦実親王が琵琶の名手として有名で、その影響か雅信自身も「音楽堪能、一代之名匠也」といわるほどの達人で「源家根本朗詠七首」などを定め、後世に朗詠の祖とまで言われるようになった。他にも有識故実や和歌、蹴鞠にも通じていたといわれている。その一方で村上天皇の時代、侍従として天皇の側で仕えていたが「仕事中には公務の事しか口にしない堅物」だとして村上天皇からはやや敬遠されたともいわれている。「大鏡」によれば、「南無八幡大菩薩 南無金峯山金剛蔵王 南無大般若波羅蜜多心経」という念誦を毎日百回ちょうど行う事を日課にしていたという。
この間、花山・一条・三条の3天皇が皇太子時代に東宮傅を務める。雅信の願いは、この関係を利用して自慢の娘の源倫子を天皇の后にする事であった。ところが花山天皇は藤原兼家の策動で退位してしまう。さらにその兼家の4男である藤原道長から倫子への求婚がされたのである。初め雅信は摂政の息子とは言え兄である道隆や道兼らがいる以上出世は望み薄で、しかも倫子よりも2歳も年下である道長では全く相手にならないと考えていた。
だが、その事を倫子の生母でもある正室藤原穆子(三十六歌仙・藤原朝忠の娘で祖父は右大臣藤原定方)に相談したところ、彼女は夫の意見に猛反対した。当時の一条天皇は道長よりも更に14歳も年下、それより2歳年上だとは言え皇太子(三条天皇)もまだ子供である。雅信が望むように倫子が宮中に入って子供を生むよりも、(実力者の息子である)道長の出世の方がまだ可能性があると主張して、強引に倫子を道長に嫁がせてしまった。これには雅信も道長の父の兼家も唖然としたという。
雅信は妻の主張が本当に正しいのか確信が持ち得ないままに993年、多くの人に惜しまれながら死去し、祖父の宇多天皇や父の敦実親王ゆかりの仁和寺に葬られた。その2年後道長は内覧藤氏長者となって、妻の判断が正しかった事を世の人々は知る事になった。道長の正妻となった倫子は頼道、教通、一条天皇中宮彰子、三条天皇中宮妍子、後一条天皇中宮威子、後朱雀天皇皇后嬉子などの生母となった。そして、1017年雅信正室の穆子は太政大臣道長の姑・摂政頼通及び3代の天皇の后妃の祖母・後一条天皇の曾祖母という多くの名誉を得て86歳の人生の幕を閉じたのである。
雅信の子孫は後世庭田・綾小路・五辻・大原・慈光寺の諸家に分かれて公家として名を残す一方、参議兼近江守だった四男扶義の子孫が近江に定着して、武士の佐々木氏へと展開し、その後の歴史に深く関るようになるのである。
[編集] 関連項目
- 土御門殿(雅信の邸宅、後に道長が継承した)
カテゴリ: 平安・鎌倉時代の皇族 | 源氏 | 920年生 | 993年没