畠山持国
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畠山 持国(はたけやま もちくに、応永5年(1398年) - 享徳4年(康正元年)3月26日(1455年4月12日))は、室町時代の室町幕府の管領。河内・紀伊・越中の守護。畠山満家の子。官位は従四位下左衛門督。後に従三位昇叙。出家して徳本(とくほん)と号す。
六代将軍足利義教の守護家に対する圧力により、持国の家臣団に対する統率力は低下していた。1441年(嘉吉元)に赤松氏により将軍義教が暗殺された際には上洛し、管領の細川持之と対立する。7代将軍に義教嫡子の足利義勝が就任し、赤松氏が討伐されると持之は管領を辞任し、持国が管領となる。同年、出家し徳本入道と名乗る。1443年(嘉吉3)に義勝が病死すると足利義政の将軍就任に運動する。実子が無く、養子に迎えた畠山政久とその弟畠山政長と、その後に誕生した実子の畠山義就との間の確執に乗じて家臣団は分裂し、足利将軍家や斯波氏の家督相続問題と関係して応仁の乱が発生する。1455年に死去、享年58。