畠山政長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
畠山 政長(はたけやま まさなが、嘉吉2年(1442年) - 明応2年閏4月25日(1493年6月9日))は、室町時代後期の室町幕府管領である。畠山持富の次男。子に畠山尚順。
兄畠山政久(弥三郎)が管領畠山持国の養子となるが、持国に実子義就が生まれると、家督を巡って政久派と義就派が対立し内紛が勃発した。しかしその渦中に兄政久が病死したため、政長は政久派に担がれることになる。この畠山氏の内紛が応仁・文明の乱の一因となった。
1466年(文正元)に管領に就任する。山名持豊(宗全)らが畠山義就を擁立して政長が罷免されると、翌1467年に管領の解任を不服として細川勝元を頼り、ついに京都上御霊社において挙兵し、足利将軍家や斯波氏の争いと関連して応仁の乱のきっかけとなる。
ところが、乱の最中に政長が山城国の守護に任じられると、本来山城国は幕府や朝廷の直轄領や有力貴族・寺社の荘園として統治され、名目上の役割に過ぎなかった筈の守護職に実権を得るために、守護領国制の導入を強行した。だが、それが同じ東軍であった細川政元(勝元の子)ら幕府首脳達の反感を買ったばかりでなく、「政長討伐」を名目とした義就軍の山城侵攻や、山城の国人・農民達による国人一揆(山城国一揆)を引き起こした。
1493年には当時の将軍足利義材(足利義稙)を擁しながら、家督を維持して権勢を誇ったが、管領となっていた細川政元が将軍廃立と実権奪還を目的とした明応の政変を起こし、政長は河内国正覚寺城を包囲され、自害する。