福岡県立筑紫丘高等学校
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福岡県立筑紫丘高等学校 | |
校章 | 角立四目結を図案化したもの |
過去の名称 | 福岡県筑紫中学校(旧制) 福岡県立筑紫高等学校 |
国公私立の別 | 公立学校(県立) |
設置者 | 福岡県(教育委員会) |
併合学校 | 福岡県三宅中学校(夜間) |
校長 | 亀岡靖(2005年4月1日 -) |
設立年月日 | 1926(大正15)年6月28日 福岡県筑紫中学校の設置、 昭和2年度からの開校許可。 |
校訓 | 剛健 叡智 創造 |
教育方針 | 1. 規範・規律の確立 2. 学力の向上 3. 進路指導の充実 4. 心身の錬磨 5. 人権尊重の教育 6. 校内外研修の充実 |
創立記念日 | 1926年6月28日 |
スクールカラー | 未制定 |
生徒数 | 1193人 |
教員数 | 66人 |
職員数 | 13人 |
創立者 | なし |
共学・別学 | 男女共学 |
中高一貫教育 | 併設型連携型ともになし |
分校 | なし |
課程 | 全日制の課程 |
二部以上の授業 | なし |
単位制・学年制 | 学年制による教育 |
学科 | 普通科 理数科 |
学科内専門コース | なし |
専攻科 | なし |
別科 | なし |
所在地・連絡先 | |
所在地 | 〒815-0041 |
福岡県福岡市南区野間2丁目13番1号 | |
電話番号 | 092-541-4061 |
FAX番号 | 092-542-1470 |
外部リンク | 公式ホームページ |
福岡県立筑紫丘高等学校(ふくおかけんりつちくしがおかこうとうがっこう)は、日本の福岡県福岡市南区に位置する共学の県立高等学校である。全日制課程に普通科、及び理数科を設置している。
呼称は「がおか」と「筑高」(ちっこう)の2通りがある。生徒の会話において、また校外では前者が極めて一般的である一方、部活動での掛け声や生徒会、一部の教師は後者を用いる(だがラグビー部のユニフォームには「GAOKA」とある)。前身である筑紫中学校(旧制)は「筑中」と呼ばれており、「筑高」はこの流れを汲む呼称であると見られる。創立以来の校名を偲ぶ意図があるのであろうが、単に好みや語調の問題である場合もある。少なくとも「入学するとみんなチッコウと呼ぶようになる」ことは絶対にない。「がおか」を用いる理由として、現在では似た名称の高校と誤解される場合があることが挙げられる(筑紫高等学校、筑紫台高等学校等)。
また正式には「筑紫丘」であるものの、食堂の食券や同窓会寄贈の黒板の一部などに「筑紫ヶ丘」と表記されているものもあり、表記は多少混乱しているといえる。
第五学区の福岡県立福岡高等学校、第七学区の福岡県立修猷館高等学校と共に御三家と称されることがある、県下有数の進学校である。創立以来32000人余りの卒業生を世に送り出してきた。一学年に12クラスだったこともあったが、現在は少子化の影響で全学年10クラス、生徒数は1193人である。
目次 |
校風
校風を一言で言い表すならば「生徒の自主性を重んじる」ということであろう。靴と鞄は自由(一応華美な物や紙袋は禁止ということになっている)で、さらに下靴と上靴の兼用が認められている。携帯電話の所持は禁止されているものの教師もこれを黙認している風があるように、校則は厳しくない。ただし服装の乱れについてはたびたび問題になっており、これはすぐに指導を受ける。だが女子の冬服のデザインはかなり長い間変更されておらず、自他共に認める「ダサい」制服であるので、このことも若干考慮すべきであろう(しかし入学後時間が経つにつれ、不満はあまり聞かれなくなってくる)。他校から見て奇抜な校則はないが、生徒が一番良く知っている校則は「男女の交際は常に公明正大であるように心がけること。(生徒心得10の(4))」である。世間からは「勉強の出来る高校」と評価されているが、後述する筑高三大行事などの行事にも特に力を入れており、生徒は楽しく高校生活を送っている。
また理数科を設置していることも記すべき特徴の一つであろう(詳しくは後述する)。
旧制筑紫中学校は筑高体操などがなかったため、大日本教育沿革史(昭和8年12月発行)には、「何等特色を有しない事が本校の特色である」と書かれている。
応援団
正式名称は筑紫丘高等学校応援団。「應援團」と旧字体で表記することが多いが、正式名称ではない。目的は「部活動の発展および本校生徒としての自覚高揚」と応援団規定で定められている。
部活動とは異なり、総務委員会のもとに設置されている。団長は生徒総会、団員は学年委員会の承認を受けなければならない。団員には女子もおり、男女差なく活動している。
主に校歌を斉唱する際に指揮を執るほか、1年生の校歌指導や大運動会練習中のフィナーレ指導などを行う。校歌指導は入学後の最初の関門とも言え、閉め切ったアリーナで行われる。全員で校歌を歌わせ、団員が認めた者から座らせるが、最後まで座れない者も若干いる。1年生にとっては嫌なものでしかないが、2、3年生には懐かしい思い出として捉えられるため、アリーナへ2列になり入っていく1年生を懐かしそうに見つめる姿が例年ある。
校歌
1955年(昭和30年)12月19日に制定された。作詞は高木市之助、作曲は信時潔による。歌詞は漢字のみの表記で、詞の中に校名がなく、これらは全国的にほとんど類を見ない特徴となっている。初めて歌詞を見た人の顔には、必ず「?」が浮かぶ。式典や大運動会では応援団の太鼓と共に斉唱する。但し、卒業式に限っては吹奏楽の伴奏である。応援団が指揮を執るだけあり、校歌は背中を反らして大声で歌う。第六学区内でこのように歌う中学校はわずかしかないため、大多数の生徒が入学式では非常に戸惑い言葉を失う。
完全下校間近になると放送でピアノ伴奏・二部合唱譜による校歌が流れる。これと公式ホームページで聴くことが出来る校歌は、普段歌うものとは異なる(下記のCD収録のものも同様)。
また1931年2月11日に制定され、戦後歌われなくなった旧校歌もあるが、今日では生徒手帳に掲載されているほか、同窓会総会や周年式典で歌われるのみである。作詞は生田徳太郎(初代校長)、作曲は片山頴太郎による。1番の歌詞の碑が校内に建てられている。
応援歌
制定された時期はおろか、作詞・作曲者は不明。生徒達が様々な学校の応援歌や校歌から気に入った言葉を集めて作られたらしい。七五調で、生徒が作ったものとしては上手くできており、なかなか人気がある。現校歌が制定される以前、校歌の代わりによく歌われていたという。校訓の一つ「剛健」をよく表している。
一
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二
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なお、校歌と応援歌は公式ホームページで聴くことが出来る。また校歌はCDにもなっており、新入生が購入するほか、売店で販売されている(タイトルは「筑紫丘」)。なお、このCDに収録されている吹奏楽版の校歌の編曲は、現在の編曲(2003年3月の卒業式から)となる以前のものである。
沿革
経緯
1926(大正15)年6月28日、前身である旧制福岡県筑紫中学校の設置が許可された。
太平洋戦争中は「学徒勤労動員令」により、生徒達は席田(むしろだ)飛行場(現福岡空港)建設や軍需工場(九州兵器工場など)に動員された。
戦後、1948(昭和23)年4月1日の学制改革により、福岡県筑紫中学校及び1943(昭和18)年より併設していた福岡県三宅中学校(夜間)を合併、福岡県立筑紫高等学校と改称した。しかし同じ旧筑紫郡に福岡県筑紫高等女学校(現筑紫中央高校)があり、「筑紫」の名称が競合することとなった。
また同年7月、塩原の校舎を福岡学芸大学(福岡分校、現在は九州芸術工科大学を経て九州大学芸術工学部)に転用する旨の県知事通告を受けた。設置されてまだ月日の短いために選ばれたのだが、「俺たちの学校をなぜ奪う」と怒る在学生はもちろん卒業生や教師、PTAなど、まさに学校一丸となった反対運動が起こった。在学生の中には血書をマッカーサー司令部に持ち込んだ者、連日県知事室にメガホンで訴えた者もいた。さらに東京・文部省(現文部科学省)をも巻き込んだ大規模な反対運動に発展したものの、現校地(野間)への移転が1949(昭和24)年3月の県議会で決定された。そして同年8月31日に福岡県教育委員会告示第23号により、現校名「福岡県立筑紫丘高等学校」に改称された。
意気消沈した学校に光を与えたのが、1951年に考案された筑高体操であった。
1967年、創立40周年記念事業の一つとして「学校教育の発展向上を目的とした筑紫丘高校教育の援助等」を目的とし、財団法人福岡県立筑紫丘高等学校筑高協会が設立された。そして同窓会や父母教師会などの協力の下、1971年筑高会館が完成した(鉄筋コンクリート3階建)。翌年学校法人筑紫丘学園の設立が認可され、4月に筑紫丘学園が開校した。筑高会館で大学浪人生を対象とする予備教育施設として活動を続けた(要するに学校が設置した予備校、ということ)ものの、大学入試センター試験の開始や大手予備校の進出を受け、1989年に休校。1995年、筑紫丘学園は解散した。その後も会館は同窓会事務局や補習授業室として使用されたが、創立80周年記念を迎えるにあたり解体、新図書館の建築が決定された。2006年現在、会館は既に解体され、更地になっている。
年表
- 1926(大正15)年6月28日 - 福岡県筑紫中学校設置許可
- 1931(昭和6)年2月11日 - 旧校歌制定
- 1941(昭和16)年7月4日 - 窓を割った生徒が車掌に殴られた為、九州鉄道(現西鉄)福岡駅駅長室で生徒60人が乱闘騒ぎ
- 1948(昭和23)年4月1日 - 福岡県立筑紫高等学校と改称、現校章の使用を開始
- 1949(昭和24)年8月31日 - 福岡県立筑紫丘高等学校と改称
- 1952(昭和27)年4月15日 - 南区塩原より現校地に移転
- 1955(昭和30)年12月19日 - 現校歌制定
- 1964(昭和39)年12月5日 - 未明の火災により本館焼失
- 1965(昭和40)年11月26日 - 本館、図書館落成
- 1967(昭和42)年9月5日 - 財団法人筑高協会設立
- 1979(昭和54)年5月13日 - 文化祭の化学部展示で爆発事故が発生し、生徒2人失明
- 1980(昭和55)年8月1日 - 体育館竣工
- 1985(昭和60)年5月18日 - 文化祭の熱気球実験で、気球が福岡空港の方に流され、注意を受けた。
- 1992(平成4)年10月2日 - ミンダナオ島、チボリ族の大学寄宿舎が完成し引き渡し式(高14回生のカンパによる)
- 1993(平成5)年7月22日 - 練習中の吹奏楽部、女子部員の制服のみが19着盗難
- 1994(平成6)年4月23日 - 筑紫丘講堂、武道場、プール落成式
- 1997(平成9)年5月30日 - 筑紫丘トンネル竣工
- 同年9月30日 - 創立70周年記念として、野村万作・萬斎親子を招き狂言の上演
歴代校長
- 初代:生田徳太郎
- 中学修猷館、第五高等学校を経て東京帝国大学文科大学史学科を卒業。従五位、勲五等。教育界の向上改善に努力し、特に精神教育に全身全霊を捧げた。筑紫中学の創立時代における苦心は並々ならぬものであった。高潔の人格者で、教育界には得難き人材といわれた。弓道の達人で、大の野球好き。また、旧校歌を作詞した。
- 第2代:井口末吉
- 広島高等師範学校卒。釜山中学教諭などを経て本校の校長に就任。ついで福岡高等学校長も務めた。退職後、福岡大学大濠高等学校を創立、初代校長に就任。授業では要点を簡潔明瞭にまとめるなど、教え方が非常に上手かった。60年に及ぶ教育生活において偉大な功績を挙げた。趣味は読書で、柔道五段。勲四等。
- 第3代:松崎覚淳
- 第4代:今村邦夫
- 旧姓は有竹。小倉師範学校(福岡第二師範学校)、広島高等師範学校卒。若松、鞍手中学校長を歴任した後、筑紫中学校長に就任。その後福岡中学校長、学制改革により福岡高等学校長。福岡県高校長会長も務めた。趣味は囲碁。
- 第5代:村上俊象
- 第6代:田中初太郎
- 第7代:志和繁猪
- 福岡市出身。高知県立海南中学校、広島高等師範学校卒。田川中学、三池中学校長、嘉穂高等学校長を歴任した後に本校の校長に就任。趣味は柔道(三段)と読書。
- 第8代:牧口喜作
- 佐賀県出身。広島高等師範学校数学部卒業。東京都帝国第一高等女学校教諭などを経て校長に就任。趣味は読書、俳句。雅号は「溪蛙」。
- 第9代:有田佳穂
- 福岡市出身。九州帝国大学法文学部卒。福岡商業高等学校長などを歴任。趣味は読書と登山。
- 第10代:古川新平
- 第11代:中島洋一
- 第12代:鶴田鋭彦
- 中学修猷館、東京高等師範学校卒。八女高等学校長、福岡県文化館長を経て本校の校長に就任。信条は「終生勉強」。趣味はスポーツ。昭和51年福岡県教育文化功労賞を受賞。
- 第13代:森山種雄
- 第14代:川島欣一
- 第15代:富久亀男
- 中学伝習館、広島高等師範学校卒。福島、大牟田北高等学校長を経て本校の校長に就任。信条は「科(あな)に盈(み)ちて進む(孟子)」。趣味はゴルフと読書。昭和58年福岡県教育文化功労賞を受賞。
- 第16代:古賀精里
- 第17代:主静雄
- 築上中学校、陸軍士官学校、広島高等師範学校理科一部卒。九州共立大学八幡西高等学校(現自由ケ丘高等学校)長。信条は「誠実」で、趣味は野球と弓道。
- 第18代:各務章(かがみあきら)
- 中学修猷館、福岡高等学校、九州帝国大学法文学部卒。筑紫中央高等学校長の後本校の校長に就任。その後に九州女子高等学校長、西日本アカデミー校長を務める。信条は「一日を全力で生きる」で、趣味は旅行と人に会うこと。昭和61年福岡県教育文化功労賞を受賞。また詩人でもあり、著書として詩集『六月の風に』『地上』などがある。平成6年福岡市文化賞を受賞。
- 第19代:横手三呂(よこてさぶろ)
- 鹿児島県立第二鹿児島中学校、鹿児島農林専門学校卒。大里、朝倉、新宮、城南の各高等学校長、福岡県教育センター所長を経て本校の校長に就任。信条は「則天去私」。
- 第20代:山野喜久夫
- 第21代:小西高昭
- 第22代:海北穣
- 財団法人筑高協会理事長。
- 第23代:田中正行
- 第24代:田中義明
- 第25代:末永照元
- 第26代:日下部成邦
- 第27代:亀岡靖(現校長)
教育組織
次の教育組織がある。
- 全日制の課程
- 普通科
- 理数科
理数科は難関大学や医学部への進学、また理数分野におけるスペシャリストの育成を目的として設置された。各学年の10組(以前は11組)であり、3年間クラス替えはない。入試における定員は40名(うち推薦枠が8名程度)で、普通科よりも倍率・偏差値ともに高い。これは入学後も同様で、模擬試験の上位層を理数科が占めることが多い。出願は第六学区外からでも可能だが、実際には第六学区外に住む生徒は数少ない。入試においては数学と理科が加重配点教科となっており、また第一志望を理数科とし、第二志望を普通科とすることが可能である(理数科に不合格でも普通科に合格することがある)。普通科よりも理数科目の単位数が多いこと、特に理科は化学・物理・生物の3科目を履修できること、独自の授業があることなどが特徴である。(種子島・屋久島研修などがある)従って理系大学への進学が有利ではあるが、文系を志す生徒がいないわけではない(だが彼らは逆に不利となる)。1年生のときから放課後に課外授業があるため、部活動や生徒会活動をする際においてもやや不利であることは否めない。
普通科2年は「文系」と「理系」へ、続いて3年には「国立理系」「国立文系」「私立文系」へ分かれる。私立文系は希望者が少ないために設置されないこともある。また理系に進んだ者が3年に進級する際に文系へと移ること(文転と呼ばれる)は認められるが、その逆は認められない。(成績優秀者に限り例外として認められる可能性もあるらしい)
かつて定時制課程が置かれていたが、福岡県立博多青松高等学校の設置に伴い2000(平成12)年に幕を閉じた。
教育方針
「剛健 叡智 創造」を校訓に、「21世紀の日本をリードし、世界に貢献する剛健かつ叡智と創造力に富んだ人材を育成する。」を教育目標に掲げている。
旧制筑紫中学校の校訓は「誠實(誠実) 剛健 勤勉 質素」である。また初代生田徳太郎校長の教育方針は「筑紫男子(つくしをのこ)」であり、その質素勤勉かつ剛健な風は現在の校章や筑高体操に現れている。
校章
筑紫神社(筑紫野市)の神紋、角立四目結(かどたてよつめゆい)を図案化し、太宰府天満宮に鎮座する学問の神、菅原道真ゆかりの梅花を組み入れ、高の字を配したもの。第2回卒業生、船越進の作。
筑高体操
剛健な「筑紫男子(つくしをのこ)」を象徴する体操で、1951年(昭和26年)に梶山彦三郎(本校の元体育教諭、福岡大学名誉教授)が考案した。海軍で行われていた体操を基にしたものという。翌1952年の運動会で初めて披露されて以来、今日に至るまで大運動会において行われている。
筑高体操は男子生徒のみが行い、その際上半身は裸となる。動きに加え掛け声も全く独自のもので、初めて見た者は多少面食らう。「体操」というのは名前だけで、ラジオ体操などとは全く異質のものである。何ヶ所か見せ場があり、各見せ場では拍手が止むまでポーズを維持しなければならない。最後の見せ場の「槍投げ」と呼ばれる動きが筑高体操像となっており、運動場わきに設置されている。しかし筑高体操像と現在の槍投げには相違点が見られる。またこの部分では数秒間動きを止めることが慣例となっているが、以前はそうでなかったという。
筑高体操像は本校の元教諭で彫刻家の高倉準一の作である。
学校行事
筑高三大行事と(生徒会が)呼ぶ翔丘祭、大運動会、予餞会がある。
- 4月 - 始業式、入学式、遠足(2・3年のみ)、規律と友情の体験学習(1年のみ)
- 5月 - 翔丘祭、中間考査
- 6月 - 創立記念日
- 7月 - 期末考査、クラスマッチ、終業式
- 8月 - キャンパスツアー(2年のみ)、夏期研修旅行(1年理数科のみ)
- 9月 - 始業式、大運動会
- 10月 - 中間考査、芸術鑑賞
- 11月 - 期末考査
- 12月 - 終業式
- 1月 - 始業式、予餞会
- 2月 - スキー研修旅行(2年のみ)、持久走大会(1・2年のみ)、期末考査
- 3月 - 卒業式、学力検査、クラスマッチ(1・2年のみ)、合格発表、終業式
翔丘祭
5月半ばに行われる、いわゆる文化祭である。翔丘祭の名前は1997年(平成9年)から使われており、これからも使われるものと思われる。文化部の発表の場であり、他に各学年毎に学年イベントが行われるがその内容は毎年変わる。また楽器演奏、歌唱の発表やライブも行われ、日頃の成果が披露される。例年、1年生は合唱コンクールに参加し、ごみ箱や大壁新聞(校舎の壁に掛ける)の制作を行う。
準備期間が他校に比べて長く設定されており、2日かけて文化祭を行うというのも行事に力を入れている本校の特徴といえる。1日目は午前に講堂で学年イベント(1年生は合唱コンクール、2年生は各クラスの発表等)が行われ、午後から一般客に公開される。2日目は朝から午後まで一般客に公開されており、卒業生や保護者、在校生の友人などが多数来客する。
学校名物とされる「筑高クッキー」(80円)の販売があり、なかなか人気がある。これは外部の業者に委託して作られているが、その作り始めたきっかけなどはよくわかっていない。
大運動会
9月に行われる行事で、筑紫丘高校で一番の行事とされている。午前の部の最後に筑高体操、午後の部は応援合戦やブロック対抗リレー、フィナーレがある。
- 聖火顕揚
- 開会式中に行われ、各ブロックから1名ずつ聖火ランナーが走る。オリンピックの聖火リレーを模したものと思われる。
- タンブリング
- 各ブロックの男子全員があるテーマに合わせて行い、点数を競う。タンブと略されることが多い。組体操を発展させたものといえる。正六(せいろく、正式名称を知る者は非常に少ない。正統六段ピラミッドの略らしい)と呼ばれるピラミッドを最後に立てることが慣例となっており、これに失敗すると優勝は非常に難しい。本来のタンブリングとは意味が異なる。
- 筑高体操
- 男子全員が行う。採点はされないため、4ブロックが心を一つにするといってよい。この勇壮な演技を見に足を運ぶ卒業生もいるという。
- 応援合戦
- 各ブロックが時間内に、テーマに沿ってチアリーディングや各ブロックが編成した応援団による舞などを行う。各ブロックの応援席を兼ねるスタンドでは、同時に工夫を凝らした人文字(赤・青・黄・白の4色、かつては緑を加えた5色を表すことの出来る、約70cm四方のボードを使う)が行われる。明らかにテーマとは関係のないものが出てくることもあり、基本的に「なんでもあり」の世界である。応援と言うよりはむしろ観客を楽しませることに主眼が置かれているように思われる。
- ダンス
- 女子全員があるテーマに沿ったダンスを行う。統一感のある優美な動きが見物である。
- フィナーレ
- まず応援歌の斉唱と応援第一号(手拍子による応援)、その後「筑高組曲」と呼ばれるものが行われ、最後に校歌を斉唱する。筑紫丘の伝統的な、硬派な部分を垣間見ることが出来る。また応援団長はこれを最後に引退する。
- おつかれ
- 練習中に頻繁に行われる。練習の最後に、「お疲れ様」や「練習が終わった喜び」を表現して歌いながら踊る、という形態が多い。ブロック全員で行うものや、ダンスのおつかれ、タンブリングのおつかれと、1ブロックにおつかれが数種類ある場合もある。「おつかれは更に疲れるためにある」と言いきるリーダーもいる。
スキー研修旅行
事実上の修学旅行だが、そう表記されることはない(理由は不明)。現在は北海道へ行くが、昔は東京・軽井沢を巡ったこともあった。さらに昔、筑紫中学時代には伊勢・京都・奈良や、満州・朝鮮を巡っていた。
予餞会
1月に行われる行事で、受験勉強に励む3年生を激励することが目的である。卒業間近でもあるので、祝いの気持ちを表すという意味もある。部活動生によるダンスや、教師も劇や歌などを披露することがある。しかし当の3年生よりも1、2年生の方が楽しむ傾向にある。締めくくりには応援団による激励が行われる。
校舎
「筑紫丘」の名の示す通り小高い丘の上に位置し、真下には筑紫丘トンネルが通っている。校舎は鉄筋コンクリート5階建てで、本館、第1棟(文系棟)、第2棟(理科棟)、第3棟(理系棟)に分かれている。また講堂のほか、武道場、2階建ての体育館、別棟の図書館、食堂がある。講堂は筑紫丘生の自慢の種の一つであり、1440人収容・冷暖房完備という、福岡県の(いや日本の、という説もある)公立校では最も豪華であろうものである。アリーナは体育館の1階、プールは武道場の屋上、食堂の下には駐輪場がある。テニスコート、ハンドボールコートは西門から50mほど東側の校外にある。
本館の前にあるフェニックスの木は、旧制筑紫中学校にあった2本の内の1本である(このことはほとんど知られていない)。また2005年の福岡県西方沖地震では校舎内にひびが入るなどの被害があった。
校内には「忍」「恕」などの文字が刻まれた石が置いてあるが、これについて知る者は皆無に近く、謎に包まれた存在である。
教室配置
全て南側から掲載している。「|」の印がある両側は、廊下で繋がっていないことを表す。
- 本館
- 1階 - 国語科研究室、保健室、会議室、校長室、事務室、職員玄関、本館玄関
- 2階 - 生徒指導室、被服教室、進路指導室、職員室
- 3階 - パソコン教室、講義室、進路資料室、社会科研究室、地歴公民教室
- 第1棟(文系棟)
- 1階 - 1年教室(5~1組)
- 2階 - 2年教室(5~1組)
- 3階 - 3年教室(5~1組)
- 4階 - 美術教室|書道教室、教材室
- 第2棟(理科棟)
- 地階 - 生徒会室、部室(放送、写真、ESS、百人一首、文芸、演劇、ギターアンサンブル)
- 1階 - 和室、家庭科教室
- 2階 - 化学教室
- 3階 - 生物教室
- 4階 - 物理教室
- 第3棟(理系棟)
- 1階 - 1年教室(9~6組)、英語科研究室、1年理数科(10組)
- 2階 - 2年教室(9~6組)、数学科研究室、2年理数科(10組)
- 3階 - 3年教室(9~6組)、校誌編集室、3年理数科(10組)
- 4階 - 教材室、音楽教室|地学教室
本館と第1棟の間には日本庭園、第1棟、第2棟、第3棟に囲まれたところに洋風庭園がある(女子部室が出来る前は、プレハブの女子部室があった)。また理数科だけは普通科と若干離れており、教室の出入り口が1箇所のみである。そのため「理数科には何となく入りづらい」という声も聞かれる(もう一つの原因は理数科独特の雰囲気、と言えなくもない)。1-10の教室は下が自販機スペースとなっているため、夏は暑く冬は寒い。そのためかつて、冬に理数科だけ石油ストーブが置かれていた(現在では全教室にエアコンを設置している)。
生徒会活動
生徒会(正式名称は筑紫丘高等学校全日制生徒会)は、生徒総会、総務委員会、学年委員会、執行委員会、学級会、校友会各部会(部活動)、会計監査委員会の7つの機関を有する。一般の学校でいう生徒会長は総務委員長と呼ばれ、副総務委員長とともに選挙で選出される。
- 生徒総会 - 生徒自治の最高議決機関と定められているが、議論の場にはなることはほとんどなかった。しかし、近年発言する生徒が増えてきており、発言があると会場が沸くという雰囲気がある。クリスマス前の総会で「公共の機関である学校でクリスマスの飾りつけをするのは宗教の自由に反するのではないか?」という意見がだされ、クリスマスの飾り付けを撤去したという事例もある。
- 総務委員会 - 生徒会の中枢機関。総務委員長、副総務委員長、書記、会計委員、執行委員長、学年委員会議長から構成され、委員は最低13名になる。
- 学年委員会 - 学級会の委員長、副委員長から構成される。
- 執行委員会 - 風紀、整美、体育、保健、環境美化の各委員会で構成される。
- 学級会 - 各学級で構成される生徒会の基本単位である。
- 校友会各部会 - 体育部委員会、文化部委員会から構成される。
- 会計監査委員会 - 総務委員会の互選により、5名の委員から構成される。
大運動会、文化祭、予餞会等の学校行事にあたっては、総務委員会により運営委員会が設置される。また、総務委員長及び副総務委員長の改選の際に選挙管理委員会が設置される。各種委員の任期は4~9月、10~3月で、再選も認められている。
これらとは他に、図書、校誌編集、家庭クラブの各委員会が生徒会とは別個に組織されている。
学校案内では盛んな生徒会活動と謳われてはいるものの、実際には活動が硬直化していると言える。背景には生徒の無関心や教師の介入などがあると考えられる。
部活動
生徒の約7割は部活動をしており、掛け持ち(兼部と呼ばれる)が認められている。特に剣道部や放送部・山岳部が大きな成果を上げている。最近は文化部の生徒が減少しており、活動に支障の出ている部もある。
筑紫中学時代に存在した部として園芸、遠足、学術研究、弓道、グライダー、講演、雑誌、射撃、地歴、図書、徒歩などがある。他にも理化科同好会、博物作業同好会もあった。
また、かつて定時制軟式野球部は全国大会を2連覇し、西日本スポーツ賞を受賞、福岡県教育文化功労者の表彰を受けた。
- 運動部
- 文化部
大学合格者状況
ほぼ全ての生徒が大学を受験、進学する。御三家の他の2校に比べ、東大志望が少なく京大志望の生徒が多いことが特徴である。以下は平成17年度の主要な大学合格者数(単位は人、括弧内は現役)。
通学手段など
南区や春日市に住む生徒の多くが、全体では約半数が自転車で通学する。特に那珂川町が通学に不便である。
出身著名人
- 池田成志 - 俳優
- うえやまとち - 漫画家、代表作はクッキングパパ
- 栗原隆司 - 鉄道写真家
- 坂梨哲士 - アナウンサー
- 四島司 - 福岡シティ銀行頭取、福岡経済同友会代表幹事
- 田中亮一郎 - 第一交通産業代表取締役社長
- タモリ - コメディアン、森田一義アワー笑っていいとも!の司会
- 中西和久 - 俳優、新手法を採り入れた一人芝居で知られる
- 宮田愛 - 歌手、NHKの「みんなのうた」でデビュー
- 宮本寛子 - 自衛官、史上初の自衛隊女性パイロット
- 望月菊磨 - 彫刻家
- 吉田博希 - 元九州電力ラグビー部監督
- 郷田正 - 元ラグビー日本代表
- 吉田峰明 - 作曲家
関連項目
外部リンク
同窓会
部活動関係
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