美福門院
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美福門院(びふく もんいん 永久5年(1117年)-永暦元年11月23日(1160年12月22日))は平安時代後期の国母。名は藤原 得子。藤原北家末茂流に生まれ、六条大夫顕季(1055-1123)の孫娘にあたる。権中納言贈太政大臣長実の女で、母は左大臣源俊房の女方子。美福門院は院号。
類まれな美貌の持ち主と伝わる。長承三年(1134年)頃、鳥羽上皇に召され、大いに寵愛された。叡子・暲子(八条院)の両内親王を生んだ後、長暦三年(1139年)5月18日、待望の皇子躰仁親王(第76代近衛天皇)を出産。同年8月17日、鳥羽院は躰仁親王を時の帝崇徳天皇の皇太弟とし、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、近衛天皇を即位させた。躰仁の東宮冊立とともに女御となった得子は、近衛即位の同年、皇后宮に立てられ、さらに久安五年(1149年)8月3日、美福門院の院号を宣下され、鳥羽法皇の先立の中宮璋子(待賢門院)を凌ぐ権勢を持つようになる。
病気がちだった近衛天皇が久寿二年(1155年)7月23日に夭折してしまう。美福門院には崇徳上皇の第一皇子の重仁親王と上皇の弟・雅仁親王(後の第77代後白河天皇)の第一皇子・守仁王(第78代二条天皇)という乳飲み子のうちから養育してきた二人の養子がいた。このうち後者は既に仁和寺の覚性法親王の元で出家することが決まっていたために、重仁親王が即位するものだと思われた。
ところが、美福門院と鳥羽法皇は近衛天皇の死が崇徳上皇や藤原忠実・頼長父子の呪詛によるものとの噂を聞いて大いに怨んだ。そのため、鳥羽法皇は自分の第四皇子である雅仁親王(後白河天皇)を即位させてしまう。法皇の意図は、重仁親王の即位を取りやめて守仁王(二条天皇)擁立する事にあったと思われ、その後守仁王と法皇の末娘[女朱]子内親王(高松院)との縁談も決められた。
軍記物である『保元物語』においては、美福門院は鳥羽法皇に働きかけて雅仁親王即位に至ったと書かれており、この話が広く知られているが、当時の記録類や『愚管抄』・『今鏡』などの歴史書では、近衛天皇の次の皇位継承は専ら鳥羽法皇と藤原忠通が主導して決定したと記述されており、彼女の悲嘆を配慮に入れた皇位継承が行われた事が想像されるものの、彼女が直接皇位継承に関与したとする史料的裏付けは存在しない。
こうして皇位継承から排除され不満が募る崇徳上皇と、美福門院によって鳥羽法皇から遠ざけられた頼長とその父忠実が結びつき、保元元年(1156年)7月8日、鳥羽院の崩後まもなく、保元の乱が勃発。美福門院はすでに落飾していたが、この乱においては卓抜な戦略的手腕を見せ、重仁親王の乳母子ゆえに鳥羽法皇の遺命では名が挙げられなかった平清盛兄弟をも招致し、後白河天皇方の最終的な勝利へ導いた。
その後は歴史の表舞台より退き、二条天皇の即位や平治の乱の収束を見届けた後、永暦元年(1160年)11月23日、四十四歳にして金剛勝院御所において崩御。遺令により遺骨は高野山に納められた(この時、女人禁制である高野山では揉めたという)。
なお、近衛天皇陵の所在する安楽寿院(鳥羽院の発願)には、美福門院の画像が伝わっている。
「殺生石」伝説の主人公である白面金毛九尾の狐「玉藻前」のモデルとも言われる。
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