藤原経宗
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藤原 経宗(ふじわら の つねむね、元永2年(1119年)-文治5年(1189年))は平安時代末期の公家。大炊御門家創始者の藤原経実の四男(あるいは五男)。母は藤原公実の女公子。子に藤原頼実がいる。
保安4年(1123年)に叙爵してから、少将・中将などをへて、久安5年(1149年)に参議となって公卿に列した。康保2年(1143年)には妹の懿子(源有仁養女)が、雅仁親王(のちの後白河天皇)の妃となり、守仁親王(のちの二条天皇)を出産した。久寿2年(1158年)9月、後白河天皇が即位すると守仁親王が皇太子となるが、経宗は、皇太子権大夫に任命される。さらに保元3年(1158年)8月、後白河天皇が退位し二条天皇が即位すると、藤原惟方らとともに天皇親政派として権勢をふるうようになった。後白河上皇は天皇派との不必要な軋轢を避けるために経宗を後白河院庁の別当に任命したりもしたが、結局経宗は後白河院政や藤原信西(藤原通憲)ら院近臣との対立を深めていく。
平治元年(1159年)の平治の乱においては、藤原信頼・源義朝と反信西の一点において同盟を結び、信西を討ったが、信頼が二条天皇を幽閉するに及んで見限り、ひそかに平清盛派に寝返った。信頼を欺き、二条天皇を女装させて信頼の門番を欺き、内裏から清盛の六波羅へ脱出させる働きをした。これにより錦の御旗を失った信頼らの敗北、清盛側の勝利は決定的なものとなった。
しかしこうした功績をもとに、乱後、経宗ら天皇親政派公卿の専横な振る舞いが多くなり、特に経宗は「世をば院にしらせまいらし、内の御沙汰にてあるへし」(愚管抄)と放言するほどの権勢を持つようになった。そのため後白河上皇はじめ院政派との対立が再燃し、永暦元年(1160年)、上皇が好んで市井の様子を眺めていた藤原顕長邸の桟敷を強引に封鎖したことから、上皇の命を受けた清盛によって惟方とともに逮捕される。上皇の怒りは激しく、二人を面前に引き据えて拷問した上、経宗を阿波国、惟方を長門国にそれぞれ流罪とした。
2年後に赦免、召還され、応保2年(1164年)右大臣、永万2年(1166年)左大臣に進む。以降、二十四年にわたって動乱のなかにあっても左大臣の地位にあり続け『愚管抄』に「左大臣一の上にて多年職者にもちいられてぞ候ける」と評された。またかつて阿波国に配流された身であったことから、「阿波大臣」と称された。これを見た藤原伊通は、かつて吉備真備が右大臣の任にあったことを引き合いに、「黍(吉備)の大臣に続いて粟(阿波)の大臣が現れたのだから、いずれは稗の大臣も現れるだろう」と皮肉を飛ばして、大いに人々を笑わせたという(『平治物語』)。
帰京後の経宗は、権勢を振るう平清盛に接近し、平重盛(清盛の長男)の子宗実を養子に迎えたほか、治承3年(1179年)には清盛の外孫である皇太子言仁親王(安徳天皇)の傅役にも選ばれた。しかし寿永2年(1183年)7月に平家が源氏に追われて西走したことで、多くの公卿と同じように以降は法皇派に乗りかえたと見え、寿永2年閏10月には後白河院庁別当としても所見するようになる。またこの頃に平宗実も養子から放逐している。
文治元年(1185年)12月に源頼朝が推挙した議奏公卿の中に経宗の名は見えないが、後白河法皇はこれを無視してその中に経宗の名を加えている。かつては経宗を憎悪した後白河法皇もこの頃には大きな信頼を寄せていたことが分かる。幼き後鳥羽天皇からも常に詰問を受け、後鳥羽院後践祚次第などを作進した。
経宗は、永暦元年(1160年)1月から配流される翌月まで越後国を知行していたが、召還後の仁安元年(1166年)正月から承安元年(1171年)4月まで備中国を、承安元年(1171年)から文治5年(1189年)に没するまで土佐国を知行した。この土佐の所領がそのまま嫡子・頼実に相伝された。文治5年(1189年)2月13日、病により官職を辞職し出家(法名は法性覚)、同年2月28日に薨去した。享年71歳。和歌にも通じていて『千載』『新勅撰集』などにも入集しており、また日記に『高門記』がある。法体の木像が京都市西方寺に所在している。
経宗の苦心の甲斐もあり、後世において大炊御門家は、清華家として安定した地位を確保することに成功している。
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