備中国
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備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、山陽道に位置する。現在の岡山県の南西部にあたる。延喜式での格は上国、中国。
飛鳥池遺跡木簡に、吉備道中国。飛鳥藤原宮の木簡には、吉備中国。と表記されている。
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[編集] 沿革
7世紀後半に、吉備国を備前国、備中国、備後国に三分して設けられた。はじめのうち、吉備道に属する一国とされたらしく、吉備道中国(きびのみちのなかつくに)と書いた木簡が見つかっている。また平安時代の『和名類聚抄』でも、備中国の和訓を「きびのみちのなかつくに」としている。
[編集] 歴史
古代から開発が進んだ先進地帯で、鉄産地でもあった。造山古墳と作山古墳があることなどから、吉備の最有力豪族の拠点だったと推定される。その後も瀬戸内海に面した交通の要を占め、天智天皇の時代に鬼ノ城が築かれた。律令制では上国とされた。
平安時代末には、妹尾兼康という武士が出、十二か郷用水を開いて村々を潤した。兼康は中央の政治では平家に忠実な家人として活躍し、最後は備中国板倉で源義仲に敗れて死んだ。
室町時代、備中国は細川氏が代々守護であったが、その影響力は早くから絶対的とは言い難く、守護代、庄氏・石川氏・上野氏や三村氏を初めとする有力地頭など国人衆の独立性が強かった。戦国時代中期には、尼子氏・大内氏の係争地となっていたが、1560年頃には毛利氏の支援を受けた三村氏(備中松山城を根拠とした)によって備中国は統一された。しかし、その三村氏も1575年に織田信長の誘いを受けて毛利氏と対立するに至り、毛利氏によって滅ぼされた(備中兵乱)。さらに羽柴秀吉を先鋒に織田信長が進出してくると、備中国高松城が織田・毛利両軍の対峙の場になった。織田信長の死による講和で、毛利輝元は備中の三郡を譲り、残りを保持することになった。
江戸時代の備中国は、数多い知行地に分割領有された。元和3年(1617年)まで、幕府は備中国奉行を派遣して広域統治にあたらせた。その後の江戸時代初期には隣接の備後福山藩水野氏の領として現在の笠岡市や井原市の大半が領地であったりし、他の備中国の小藩には、備中松山藩(池田氏、水谷氏を経て板倉氏)、成羽藩(山崎氏)、岡田藩(伊東氏)、足守藩(木下氏)、庭瀬藩(戸川氏、後に板倉氏)、浅尾藩(蒔田氏)があった。以上は断絶や転封で様々に変遷した。現在の高梁市にある松山城が備中国唯一の城で、残りは陣屋を構えた。松山城下は江戸時代はじめに備中国で最大の人口を抱えた。
倉敷は、城下町ではなかったが、徳川氏政権の直轄地として代官所が置かれ、幕府によって備前国から讃岐国に移管された小豆島なども統治した。江戸時代を通じて発展を続けた倉敷は、松山と肩を並べ、やがてこれを凌駕して備中最大の都市となって現在に至る。現在の倉敷市西部にあたる玉島は、瀬戸内海の流通と結びついた備中松山藩の海港として栄えた。備中では綿作が広まり、江戸時代後期になるとその加工も盛んになった。また、製鉄もなお重要であり続けた。
明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県の直後、備中国には10の県があった。同年中に備後国の6郡とあわせて深津県となった。深津県は明治5年(1872年)に小田県と改称し、明治8年(1875年)に岡山県に合併した。
幕府調査による人口は、文政5年(1822年)が33万7155人であった。明治政府の明治5年(1872年)の調査による人口は、39万6880人であった。
[編集] 国府・国分寺・一宮・総社
国府は賀夜郡にあった。現在の総社市金井戸付近と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。言い伝えで国府があったとされる場所がある。地名も南国府・北国府ほか関連のものがあり国府姓も多い。
国分寺と国分尼寺は、現在の総社市上林(都宇郡)にあり、遺跡が見つかっている。国分寺は中世にいったん廃寺になったあと、江戸時代の宝永7年 (1710年) に元の国分寺のそばに再建された。国分尼寺は現在の総社市上林字皇塚にあり、国分寺より早く廃絶して再建されなかった。現在遺構を残すのみである。
延喜式神名帳には大社1座1社・小社17座17社の計18座18社が記載されている。唯一の大社は賀夜郡の吉備津神社(岡山市吉備津)で、名神大社に列し、備中国一宮とされている。三国に分かれる以前より吉備国一宮であり、分かれた後も三国の一宮とされた。吉備津神社より勧請を受けて備後国に吉備津神社、備前国に吉備津彦神社が創建され、それぞれの国の一宮とされた。美作国一宮の中山神社も吉備津神社からの勧請という説もある。二宮は鼓神社(岡山市上高田)。
総社は備中総社宮(総社市総社2丁目)である。衰退・消滅した総社が多い中、広い境内と庭園風の池や大きな社殿を持つ立派な神社となっている。境内の広さ・社殿の大きさ・祀っている神の数では全国の総社中で日本一。周辺は門前町として発展し、「総社」の地名が起こった。
[編集] 守護
[編集] 鎌倉幕府
- 1184年~? - 土肥実平
- 1276年~1279年 - 北条氏
[編集] 室町幕府
- 1343年~1351年 - 南宗継
- 1352年~1355年 - 秋庭氏
- 1356年~1362年 - 細川頼之
- 1362年~? - 高師秀
- 1364年~1365年 - 宮兼信
- 1365年~1375年 - 渋川義行
- 1375年~1393年 - 渋川満頼
- ?~1381年 - 石堂氏
- 1390年~1392年 - 細川頼之
- 1392年~1405年 - 細川満之
- 1405年~1430年 - 細川頼重
- 1430年~1460年 - 細川氏久
- 1460年~1493年 - 細川勝久
- 1511年~1512年 - 細川之持
- 1515年~1518年 - 細川政春
- 1552年~1561年 - 尼子晴久
- 1562年~1563年 - 毛利隆元
[編集] 国司
[編集] 備中守
- 源雅俊 1092年任官(権守)。
- 源師頼 1104年任官(権守)。
- 源師時 1123年任官(権守)。
- 平師盛 1179年(治承3年)任官。
- 平経盛 1182年(養和2年)任官(権守)。
- 塙直政 1575年(天正3年)任官。
- 池田長幸 因幡鳥取藩の第2代藩主。備中松山藩の初代藩主。
- 渡辺基綱 武蔵野本藩の第3代藩主。和泉伯太藩(大庭寺藩)の初代藩主。
- 渡辺潔綱 和泉国伯太藩第8代藩主。
- 渡辺章綱 和泉国伯太藩第9代藩主。
[編集] 備中介
- 源雅俊 1079年任官(権介)。
- 源師頼 1087年任官(権介)。1095年任官。
- 源師時 1103年任官(権介)。
- 源雅定 1116年任官。
[編集] 備中掾
- 平致頼