デビッド・クルサード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
F1での経歴 | |
国籍 | イギリス スコットランド |
車番 | 14 |
所属チーム | レッドブル |
活動年数 | 1994 - |
過去の所属チーム | ウィリアムズ, マクラーレン |
出走回数 | 212 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 13 |
通算獲得ポイント | 513 |
表彰台(3位以内)回数 | 61 |
ポールポジション | 12 |
ファステストラップ | 18 |
F1デビュー戦 | 1994年スペインGP |
初勝利 | 1995年ポルトガルGP |
2006年順位 | 13位 (14ポイント) |
(記録は2006年第18戦終了時) | |
デビッド・マーシャル・クルサード(David Marshall Coulthard, 1971年3月27日 - )は、イギリス・スコットランド南西部にあるトゥインホルム生まれ、現在モナコ・モンテカルロ在住のF1ドライバー。コールサード、クルタード、コルトハード(イギリス英語ではCoult-hardと分解されるため、イギリス、特にスコットランドでこう呼ばれる。日本HPのサイトでも用いられていた)と表記・発音されることもある。ニックネームはDCだが、日本ではデビクルと呼ばれる場合が多い。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] F1デビュー以前( - 1993年)
クルサードはトラック輸送を生業とする裕福な家庭に生まれ、幼少時からカートレースを行っていた。1989年にはヨーロッパにおけるジュニア・フォーミュラの代表格であるフォーミュラ・フォードに参戦し、その印象的なパフォーマンスにより最初のマクラーレン/オートスポーツ・ヤングドライバー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。1990年にはフォーミュラ・ヴォクスホール・ロータスに参戦するが、ベルギーのスパ・フランコルシャンにおける事故で足を骨折してしまう。
しかし1991年カムバックし、イギリスF3にポール・スチュワート・レーシングから参戦、ランキング2位でシリーズを終え、オランダのザンドフールト・サーキットで開催された第1回マスターズF3、ポルトガル領(現在は中華人民共和国領)のマカオ市街地サーキットで行われたマカオGPでは優勝した。
1992年には国際F3000に昨年と同様ポール・スチュワート・レーシングから参戦しランキング9位となり、1993年にはパシフィック・レーシングより参戦しランキング3位となった。またこの年、ベネトン、ウィリアムズのテストに参加した。
[編集] ウィリアムズ在籍時代(1994年 - 1995年)
1994年にはウィリアムズのテストドライバーとなる。同年ナンバー1ドライバーのアイルトン・セナが第3戦サンマリノGPで事故死し、その代役としてクルサードが選ばれた。クルサードはデビューレースである第5戦スペインGPから第13戦ポルトガルGPまで(第7戦フランスGPは欠場)の8戦に参戦し、ポルトガルGPでは2位を獲得するなど初年度から活躍した。しかしコンストラクターズタイトルを死守したいウィリアムズチーム側の意向により、第7戦フランスGPと第14戦ヨーロッパGP以降のシーズン最終3戦のシートは1992年のF1チャンピオンナイジェル・マンセルに譲ることになった。
そのような不安定な環境に嫌気が差し、クルサードは1994年のシーズン終盤に1995年シーズンのマクラーレン入りを画策する。しかし所属チームのウィリアムズが提訴をし、裁判の末ウィリアムズ残留が決定、1995年もウィリアムズで戦うことになる。シーズン後半、第12戦イタリアGPから4戦連続でポールポジションを獲得し速さを見せつけ、第13戦ポルトガルGPでは初優勝を果たしたものの、同時に、イタリアGPでポールポジションからのスタートながらフォーメーションラップでスピンアウトを喫したのをはじめに、第16戦日本GPでのスピンアウト、最終戦オーストラリアGPでのトップ快走中のピットレーンでのクラッシュなど、終盤はつまらないミスを立て続けに犯してしまってもいる。シーズン終了をもってウィリアムズとの契約期間が切れたため、1996年は満を持してマクラーレンに移籍。
[編集] マクラーレン在籍時代(1996年 - 2004年)
1996年はマクラーレンのチーム状態がどん底だったため勝利がなかったが、1997年の開幕戦オーストラリアGPでチームに4シーズンぶりとなる優勝をもたらす。第14戦イタリアGPでも優勝し、未だ完全復活していないマクラーレンで2勝をあげたクルサードは、この時チームメイトのミカ・ハッキネンより明らかにチーム内で優位に立っていた。
しかし戦闘力がトップクラスになった1998年から2000年において、ハッキネンが1998年・1999年と連続してタイトルを獲得したのに対して、クルサードは2000年のシーズン序盤から中盤にかけてタイトル争いをした時以外は、ハッキネンに遅れをとることが多かった。2001年はシーズン前半の活躍によりシリーズ2位になったものの、獲得ポイントはその年のチャンピオンミハエル・シューマッハの約半分に過ぎなかった。
2001年シーズン終了後、チームメイトのハッキネンは休養(その後引退)し、代わってハッキネンと同じフィンランド人のキミ・ライコネンがチームメイトとなる。2002年はライコネンにリタイアが多かったためクルサードの方がポイントを多く獲得したが、2003年になるとライコネンは最終戦までタイトルを争うほどの活躍をし、再びクルサードはセカンドドライバーの地位に甘んじてしまう。さらに2003年末にはファン・パブロ・モントーヤが2005年からマクラーレンに加入することが発表され、その結果クルサードは2004年シーズンが始まる前から2004年限りでマクラーレンを放出されることが事実上決定してしまう。その心理的影響に加え、マクラーレンが2004年投入したマシンMP4-19の戦闘力の低さから、2004年は優勝はおろか表彰台にすら上がれないという結果に終わってしまう。そしてクルサードは、開幕前から予想されていた通りマクラーレンを放出される。
[編集] レッドブル在籍時代(2005年 - )
2005年よりレッドブル・レーシングから参戦、開幕から堅実な走りを見せ、3戦連続でポイントを獲得した。シーズン開幕前、レッドブルはマシン性能面においてはほとんど注目されていなかったため、この連続ポイント獲得は春の衝撃と呼ばれた。その後も第7戦ヨーロッパGPでも表彰台まで後一歩の4位入賞を果たすなど、その経験にチーム関係者の評価は高く、シーズン半ばで早くも2006年のシートを確保した。
2006年第7戦モナコGPでは、自己ベストラップタイムが出走22人中19位ながらも、上位陣のリタイアなどに助けられ3位入賞。レッドブル史上初、また自身にとって2003年日本GP以来の表彰台を獲得した。表彰式ではチームがタイアップしていたスーパーマンの赤マント姿で登場するパフォーマンスを魅せた。
2006年よりチームに合流した、エイドリアン・ニューウェイをヘッドハンティングしたのは彼だと言われている。
[編集] 評価
ウィリアムズやマクラーレンという有力チームに参戦歴が長く、また13勝も上げながら、タイトルを取ったことが1度もないこともあって、中途半端なイメージをもたれがちで、また中にはドライバー能力そのものを疑う人もいるが、一方でマシン開発能力が高く、ブリヂストンがF1参戦2年目(1998年)でタイトル獲得した影の功労者的存在でもある。また1997年から2003年まで必ず年間で1勝以上あげている。力強いドライバーとはいえないが、開幕前に苦戦が予想された2005年に、レッドブルでシーズンを通してコンスタントにポイント獲得を果たすなど、能力としては優れたものを持つドライバーで、2005年終了時点での通算499ポイントは、ミハエル・シューマッハ、アラン・プロスト、アイルトン・セナに次いで史上第4位となっている。2006年第3戦で1ポイントを獲得し、通算500ポイントを達成した。
[編集] エピソード
- ジェット機が墜落するも奇跡的に生還
- 2000年春にクルサードと当時の恋人、ハイジ・ウィチリンスキが搭乗したプライベートジェットが墜落。操縦士と副操縦士は死亡したものの、クルサードとハイジは奇跡的に軽傷のみで助かる。その直後の第5戦スペインGPでクルサードは2位に入り、一時期鉄人と呼ばれたこともあった。
- 経営者としての一面
- 2001年春からはモナコで友人2人とホテル・コロンバスを共同経営しており、マクラーレン時代はモナコGPの際のチームの定宿としても利用されていた。
- 顔の四角さ
- 顔が四角いのが特徴であり、似顔絵などではエラの張った顔で描かれることが多い。1996年モナコGPではヘルメットを頭の形が全く異なるシューマッハに借りてレースに出た。
- また、日本の一部ファンの間では四角い顔の代名詞としてサイコロやペヤングソース焼きそばに例えられる事も多い。
- ガールフレンド
- 顔に似合わずクルサードはプレイボーイとしても有名で、F1デビュー戦を彼女同伴で来たのを皮切りに、彼の側にはいつも美人のガールフレンドがいる。しかもいずれの女性とはあまり長続きはせず、前述のハイジとも生死の危機を乗り越えた関係であるにもかかわらず、結局別れている。彼は以前、「ワールドチャンピオンになるまで結婚はしない」といっていたが、その言葉を信じれば彼は一生独身でありつづけるのでは、という説もある。
[編集] F1での年度別成績
(2006年第18戦終了時)
年 | 所属チーム | 獲得ポイント | ランキング | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | *予選最高位・回数 |
---|---|---|---|---|---|---|
1994年 | ウィリアムズ | 14 | 8位 | 2位・1回 | 1回 | 3位・2回 |
1995年 | 49 | 3位 | 1位・1回 | 8回 | 1位・5回 | |
1996年 | マクラーレン | 18 | 7位 | 2位・1回 | 2回 | 4位・2回 |
1997年 | 36 | 3位 | 1位・2回 | 4回 | 3位・1回 | |
1998年 | 56 | 3位 | 1位・1回 | 9回 | 1位・3回 | |
1999年 | 48 | 4位 | 1位・2回 | 6回 | 2位・6回 | |
2000年 | 73 | 3位 | 1位・3回 | 11回 | 1位・2回 | |
2001年 | 65 | 2位 | 1位・2回 | 10回 | 1位・2回 | |
2002年 | 41 | 5位 | 1位・1回 | 6回 | 2位・1回 | |
2003年 | 51 | 7位 | 1位・1回 | 3回 | 2位・1回 | |
2004年 | 24 | 10位 | 4位・1回 | 0回 | 3位・1回 | |
2005年 | レッドブル | 24 | 12位 | 4位・2回 | 0回 | 5位・1回 |
2006年 | 14 | 13位 | 3位・1回 | 1回 | 7位・1回 |
*予選順位はペナルティなどを反映した決勝グリッド
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- デビッド・クルサード 公式サイト
- レッドブル・レーシング 公式サイト
- ホテル・コロンバス - クルサードが共同経営者の一人として名を連ねているホテル。Columbus Monaco Hotel
- The David Coulthard Museum - 故郷トゥインホルムにあるクルサードに関する博物館。
2006年シーズンのF1世界選手権を戦うチームと出走ドライバー | |||||||||||
M | RENAULT | M | McLAREN | B | FERRARI | B | TOYOTA | B | WILLIAMS | 使用タイヤ: M: ミシュラン B: ブリヂストン |
|
1 | アロンソ | 3 | ライコネン | 5 | M.シューマッハ | 7 | R.シューマッハ | 9 | ウェバー | ||
2 | フィジケラ | 4 | デ・ラ・ロサ | 6 | マッサ | 8 | トゥルーリ | 10 | ロズベルグ | ||
M | HONDA | M | RED BULL | M | BMW SAUBER | B | SPYKER MF1 | M | TORO ROSSO | B | SUPER AGURI |
11 | バリチェロ | 14 | クルサード | 16 | ハイドフェルド | 18 | モンテイロ | 20 | リウッツィ | 22 | 佐藤 |
12 | バトン | 15 | ドーンボス | 17 | クビサ | 19 | アルバース | 21 | スピード | 23 | 山本 |
井出 (スーパーアグリ-23・第1~4戦) / モントーヤ (マクラーレン-4・第1~10戦) モンタニー (スーパーアグリ-23・第5~11戦) / ヴィルヌーヴ(BMW-17・第1~12戦) クリエン (レッドブル-15・第1~15戦) |