ルノーF1
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エントリー名 | MILD SEVEN Renault F1 Team |
---|---|
チーム国籍 | フランス |
チーム本拠地 | イギリスオックスフォード州エンストーン |
チーム代表者 | フラビオ・ブリアトーレ(マネージングディレクター) アラン・ダサス(チーム代表) |
テクニカルディレクター | ボブ・ベル |
ドライバー | 1. フェルナンド・アロンソ 2. ジャンカルロ・フィジケラ |
テストドライバー | ヘイッキ・コヴァライネン |
シャシー | ルノーR26 |
エンジン | ルノーRS26 |
タイヤ | ミシュラン |
参戦年度 | 1977 - 1985 , 2002 - |
出走回数 | 210 |
コンストラクターズタイトル | 2 (2005, 2006) |
ドライバーズタイトル | 2 (2005, 2006) |
優勝回数 | 33 |
通算獲得ポイント | 925 |
表彰台(3位以内)回数 | 85 |
ポールポジション | 50 |
ファステストラップ | 27 |
F1デビュー戦 | 1977年イギリスGP |
初勝利 | 1979年フランスGP |
2006年順位 | 1位 (206ポイント) |
(記録は2006年第18戦終了時) | |
ルノーF1(Renault F1 Team)は、1977年から1985年及び2002年以降にF1に参戦しているレーシングチーム。2006年現在の正式名称はマイルドセブン・ルノーF1チーム(MILD SEVEN Renault F1 Team)。
なお、下記の記述のうち、厳密にはルノーF1の法人名で活動しているのは第3期のみであり、第1期・第2期についてはルノーのモータースポーツ部門であるルノー・スポール(Renault Sport)による活動である点に注意が必要である。
目次 |
[編集] 概要
フランスに本社を置くヨーロッパ最大の自動車製造会社であるルノーのF1チームとして、1977年に参戦を開始した。
F1においてはチームとしての活動のみならず、エンジン供給のみを行うエンジンサプライヤーとしても輝かしい戦績を残しており、2005年シーズン終了時点での通算105勝(第1期:20勝{フルコンストラクターで15勝、他チームで5勝}、第2期:75勝、第3期:10勝)は、エンジンサプライヤーとして記録したものとしては、フェラーリの183勝、フォード・コスワースの176勝に次ぐ、史上3位の記録となっている。
また、2005年と2006年の2年連続で、コンストラクターズ(製造者)、ドライバーズの両タイトル(ドライバーはフェルナンド・アロンソ)を獲得した。
[編集] 歴史
[編集] 第1期
[編集] ターボの先駆者
1977年にルノーF1チームとして、3ℓ自然吸気のフォード・コスワース・DFVエンジンが大勢を占める当時のF1界に、グランプリ史上初の1.5ℓV6ターボチャージャーエンジンを搭載した車体でフルコンストラクター(車体もエンジンも自社で製作するチーム)として参入した。過給器付きエンジンは長らく自然吸気エンジンと並んでF1のレギュレーションに規定はあったものの、それは全く死文化した規定であり誰も過給器付きエンジンをグランプリに持ち込もうとはしなかった。ターボチャージャーについては、スロットルに対しての反応が遅い「ターボラグ」が指摘されており、グランプリには自然吸気エンジンの方が適していると言うのが当時の常識であった。当然ルノーの挑戦に対してもグランプリでは懐疑的な意見が多かった。
実際、参入当初は熟成不足のためもありエンジントラブルで白煙を上げながらリタイアすることが多かったため、その黄色いカラーリングをもじって「イエロー・ティーポット」と揶揄されもしたが、次第に実力を発揮し、デビュー3年目の1979年のフランスGPで初勝利を上げた(ドライバーはジャン=ピエール・ジャブイーユ)。その後のF1界は、ターボエンジンを搭載した車体で勝利を重ねるルノーに倣って、自然吸気エンジンからターボエンジンへの移行が大きな流れとなった。
[編集] エンジン供給
1983年からはロータスやティレル、リジェなど、当時の強豪チームへのエンジン供給も行ない、アイルトン・セナとエリオ・デ・アンジェリスにより計5勝をものにした。
コンストラクターとしての参戦は1985年に終えたが、エンジン供給は1986年まで行った。コンストラクターとしてのルノー、そしてエンジンサプライヤーとしてのルノーともに選手権でのタイトルを何も獲得できないまま、ルノー本社の一時的な経営不振を受け第1期の挑戦を終えた。
[編集] 功績
グランプリに革命をもたらしたターボエンジンは1982年にフェラーリがターボエンジンとしては初めて年間王者を獲得し、それまでのDFV全盛時代に終焉の幕を下ろさせ、F1界に1980年代後半のターボエンジン全盛時代をもたらした。パイオニアとしてターボエンジンを持ち込んでおきながら自身は他社のターボエンジン搭載チームにとうとう勝ち得なかったということはルノーにとって皮肉な事ではあるが、同時に、ルノーが揶揄されながらもターボエンジンをグランプリに持ち込んだ事が決して間違っていなかったという事は、ターボエンジン搭載車がこの1982年以降、使用を禁止される1988年まで選手権を席捲し続けたという事実によって証明されることとなった。
[編集] 第2期-エンジンサプライヤーとして復帰
[編集] V10
ターボエンジンの全面使用禁止と3.5ℓ自然吸気エンジンの導入が開始された1989年に、ルノーはエンジンサプライヤーとしてF1界に復帰した。この時もルノーは復帰第1作となるRS1でニューマチックバルブ(従来のバルブスプリングではなく、圧搾空気を用いて吸排気バルブを駆動する方式)を搭載したV10エンジンというターボに続く新機軸を持ち込み、先ずはウィリアムズへのエンジン供給を開始し、後にリジェ、ベネトンにもエンジンを供給するようになった(リジェには1992年から1994年にカスタマー仕様を供給)。
[編集] 最強エンジン
最初の2年こそ、当時隆盛を極めていたホンダエンジン搭載のマクラーレンの後塵を拝することが多かったが、1992年から1997年にかけては、エンジン供給先のウィリアムズとベネトン(1995年からエンジン供給開始)の両チームがコンストラクター(車体製造者)部門のタイトルを6年連続、ドライバー部門のタイトルを計5回(詳細は別項参照)獲得し、また、参戦していた9年間で75勝をあげるなど、1990年代のF1界に黄金時代を築き、最強エンジンサプライヤーの名を欲しいままにした。
特に1995年はルノー勢がシーズンを圧倒し、ベネトン・ルノーとウィリアムズ・ルノーの2チームで年間全17戦中16勝を収めた。過去にはフォード・コスワース勢が年間全勝した1969年(全11戦)、1973年(全15戦)の例があるが、年間の勝利数としては、2005年シーズン終了時点においても1995年にルノーが樹立したこの16勝という記録が依然としてエンジンサプライヤーとしての最多勝記録となっている。
[編集] 撤退
1996年フランスGP中に、翌年末をもっての撤退を発表した。当時経営不振に陥っていたルノーのリストラ策の一環としての苦渋の選択であった。また、撤退の理由のひとつとして、“もはやルノーがグランプリで勝ってもニュースとなることはなく、ルノーが負けた時にのみニュースとなる”ことへの嫌気が挙げられた。
[編集] スーパーテック
[編集] メカクローム社
ルノーは1997年シーズンの終了をもって、F1でのエンジンサプライヤーとしての活動を終了する旨を発表したが、その後も1997年シーズンのルノーエンジンRS9をベースとしたエンジンが供給された。このエンジンは元々カスタマー仕様のルノーエンジンの供給を請け負っていたメカクローム社が製作し、元ベネトンのフラビオ・ブリアトーレが販売権利を取得の上、スーパーテックの名称で販売され、ベネトン(1998年から2000年まで一貫して自社のブランドネーム・プレイライフのバッジを付けてプレイライフエンジンと呼ばれていた)、ウィリアムズ(1998年のみメカクロームの名称。1999年まで供給)の旧ルノーユーザーだけではなく、B・A・R(1999年)、アロウズ(2000年)といったコンストラクターにも供給された。
[編集] データ収集
スーパーテックエンジンは型遅れのエンジンであり、戦闘力はフェラーリやメルセデスと言ったワークスエンジンには遠く及ばなかったものの、これらのエンジンに比べて比較的手に入れやすいエンジンであったため、多くのチームがスーパーテックの恩恵に預かる事となった。このスーパーテックの活動はワークスとしてのルノーが復活する2000年まで続けられた。当然この間のデータは第3期のルノーの活動にフィードバックされている。
[編集] 第3期
[編集] フルコンストラクターとして復帰
その後2000年3月15日に、かつてエンジン供給を行っていたイタリアのファッションブランドであるベネトン社が所有していたベネトンF1チームを1200万ドルで買収し、2001年からのエンジン供給を経て、2002年に「マイルドセブン・ルノーF1チーム」として17年ぶりにフルコンストラクターとして復帰した。この際に、2005年までにコンストラクター部門でのタイトルを獲得するという目標を掲げた。
ルノーによるワークスエンジン供給を打ち切られた後には一時低迷していたベネトンチームであったが、ルノーとなってからは次第に競争力を取り戻し、ベネトン時代にチームをチャンピオンに導いたイタリア人指揮官のフラビオ・ブリアトーレの下、マクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズなどに並び、F1を代表する強豪チームの一角に返り咲いた。
[編集] 2005年シーズン
2005年シーズンはティム・デンシャム率いるデザインチームの手になる「R25」にスペイン人ドライバーのフェルナンド・アロンソと、イタリア人ドライバーのジャンカルロ・フィジケラの2人のトップクラスのドライバーを揃え、磐石の態勢でシーズン開幕に臨んだ。R25の高い戦闘力と信頼性を武器にシーズン前半から勝ち続け、後半マクラーレン・メルセデスの猛追を振り切り、最終戦の中国GPでコンストラクター(車体製造者)部門のタイトルを獲得した。最終的に、全19戦中開幕4連勝を含む8勝をあげ、シーズン累計で191ポイントを獲得した。
また、第17戦ブラジルGPにおいて、アロンソがシーズン終了まで2戦を残してドライバー部門のタイトルを獲得した(シーズン累計で計133ポイントを獲得)。アロンソは、スペイン人としては初のチャンピオンとなり、同時に、1972年シーズンのエマーソン・フィッティパルディの記録(25歳273日)を更新する、F1史上最年少(24歳58日)のドライバーズチャンピオンとなった。
フルコンストラクターの「ルノーチーム」としては、コンストラクター部門、ドライバー部門ともに第1期、第3期を通して初のタイトル獲得となった。
[編集] 2006年シーズン
[編集] 体制
2006年シーズンも2005年と同じドライバー体制で新型「R26」により2年連続のダブルタイトルを狙うが、テストドライバー兼リザーブドライバーだったフランク・モンタニーがチームから離脱し、後任には、2005年には第2テストドライバーを務め、GP2でシーズンランキング2位になったフィンランド人ドライバーのヘイッキ・コヴァライネンが就いた。2005年にチャンピオンを獲得したアロンソは、同年12月20日に、2007年シーズンよりマクラーレンに移籍することが明らかとなった。 2006年1月31日に、モンテカルロで新車R26の発表会が催された際、ルノーのカルロス・ゴーン会長が、2006年シーズンをもって撤退するという噂を否定し、2007年以降も参戦を続けることを明らかにした。しかし、同会長はその年その年の「成績、コスト、費用対効果、本業の業績、2008年以降のレギュレーション議論の行方」などを見たうえで判断を下すとの見解も明らかにしており、ルノーがフェラーリのごとく永続的にF1参戦を続けるとする見解は少数派となっている。
[編集] 2年連続のダブルタイトル獲得
第2戦マレーシアGPで、フィジケラ、アロンソの順で1-2フィニッシュを果たした。これはベネトンを買収した「100%ルノー」になってからは初めてのことで、第1期を含めても、1982年フランスGPでのルネ・アルヌーとアラン・プロストによるもの以来、実に24年ぶりで2回目のことであった。
しかしその後は、中盤のレギュレーション変更によるマシンのセッティング変更などに悩まされた上、ブリヂストンタイヤの性能に助けられたフェラーリに猛追されたものの、最終戦である第18戦ブラジルグランプリにおいて、アロンソが2位で入賞しドライバーズタイトルを獲得、また同時にコンストラクターズタイトルも獲得し2年連続のダブルタイトル獲得となった。
[編集] 2006年の主なスポンサー
EUによるタバコ広告への規制強化に伴い、タイトルスポンサー(メインスポンサー)である日本たばこ(マイルドセブン)は、2006年シーズンをもってスポンサーから降りることを明らかにしている。なお2007年シーズンからING グループがタイトルスポンサーとなり「INGルノーF1チーム」となる。
[編集] ルノー・エンジンの供給先とF1で記録した優勝
[編集] 第1期
- 1977年:0勝 - ルノー0勝
- 1978年:0勝 - ルノー0勝
- 1979年:1勝 - ルノー1勝(ジャン=ピエール・ジャブイーユ1勝)
- 1980年:3勝 - ルノー3勝(ルネ・アルヌー2勝、ジャブイーユ1勝)
- 1981年:3勝 - ルノー3勝(アラン・プロスト3勝)
- 1982年:4勝 - ルノー4勝(プロスト2勝、アルヌー2勝)
- 1983年:4勝 - ルノー4勝(プロスト4勝)、ロータス0勝
- 1984年:0勝 - ルノー0勝、ロータス0勝、リジェ0勝
- 1985年:3勝 - ルノー0勝、ロータス3勝(アイルトン・セナ2勝、エリオ・デ・アンジェリス1勝)、リジェ0勝、ティレル0勝
- 1986年:2勝 - ロータス2勝(セナ2勝)、リジェ0勝、ティレル0勝
[編集] 第2期
第2期にはウィリアムズやベネトンといったトップチームへエンジンを供給し、9年間で計75勝を記録した。これはほぼ同時期(1983年─1992年)にウィリアムズやマクラーレンなどにエンジンを供給していたホンダの69勝をもしのぐもので、F1史上空前の強力なエンジンサプライヤーとして君臨した。
- 1989年:2勝 - ウィリアムズ2勝(ティエリー・ブーツェン2勝))
- 1990年:2勝 - ウィリアムズ2勝(リカルド・パトレーゼ1勝、ブーツェン1勝)
- 1991年:7勝 - ウィリアムズ7勝(ナイジェル・マンセル5勝、パトレーゼ2勝)
- 1992年:10勝 - ウィリアムズ10勝(マンセル9勝、パトレーゼ1勝)、リジェ0勝
- 1993年:10勝 - ウィリアムズ10勝(プロスト7勝、デイモン・ヒル3勝)、リジェ0勝
- 1994年:7勝 - ウィリアムズ7勝(ヒル6勝、マンセル1勝)、リジェ0勝
- 1995年:16勝 - ベネトン11勝(ミハエル・シューマッハ9勝、ジョニー・ハーバート2勝)、ウィリアムズ5勝(ヒル4勝、デビッド・クルサード1勝)
- 1996年:12勝 - ウィリアムズ12勝(ヒル8勝、ジャック・ヴィルヌーヴ4勝)、ベネトン0勝
- 1997年:9勝 - ウィリアムズ8勝(ヴィルヌーヴ7勝、ハインツ=ハラルト・フレンツェン1勝)、ベネトン1勝(ゲルハルト・ベルガー1勝)
[編集] 第3期
- 2001年:0勝 - ベネトン0勝
- 2002年:0勝 - ルノー0勝
- 2003年:1勝 - ルノー1勝(フェルナンド・アロンソ1勝)
- 2004年:1勝 - ルノー1勝(ヤルノ・トゥルーリ1勝)
- 2005年:8勝 - ルノー8勝(アロンソ7勝、ジャンカルロ・フィジケラ1勝)
- 2006年:7勝 - ルノー8勝(アロンソ7勝、フィジケラ1勝) ※第18戦終了時点
[編集] ルノーでドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー
[編集] フルコンストラクター
- フェルナンド・アロンソ(2005、2006)
[編集] 第2期(エンジン供給のみ)
- ナイジェル・マンセル(1992、ウィリアムズ)
- アラン・プロスト(1993、ウィリアムズ)
- ミハエル・シューマッハ(1995、ベネトン)
- デイモン・ヒル(1996、ウィリアムズ)
- ジャック・ヴィルヌーヴ(1997、ウィリアムズ)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] チーム公式
- Renault F1 Team(フランス語/英語)
- ルノーF1チームワールドチャンピオン記念サイト(日本語/フランス語/英語など)
[編集] ルノー
2006年シーズンのF1世界選手権を戦うチームと出走ドライバー | |||||||||||
M | RENAULT | M | McLAREN | B | FERRARI | B | TOYOTA | B | WILLIAMS | 使用タイヤ: M: ミシュラン B: ブリヂストン |
|
1 | アロンソ | 3 | ライコネン | 5 | M.シューマッハ | 7 | R.シューマッハ | 9 | ウェバー | ||
2 | フィジケラ | 4 | デ・ラ・ロサ | 6 | マッサ | 8 | トゥルーリ | 10 | ロズベルグ | ||
M | HONDA | M | RED BULL | M | BMW SAUBER | B | SPYKER MF1 | M | TORO ROSSO | B | SUPER AGURI |
11 | バリチェロ | 14 | クルサード | 16 | ハイドフェルド | 18 | モンテイロ | 20 | リウッツィ | 22 | 佐藤 |
12 | バトン | 15 | ドーンボス | 17 | クビサ | 19 | アルバース | 21 | スピード | 23 | 山本 |
井出 (スーパーアグリ-23・第1~4戦) / モントーヤ (マクラーレン-4・第1~10戦) モンタニー (スーパーアグリ-23・第5~11戦) / ヴィルヌーヴ(BMW-17・第1~12戦) クリエン (レッドブル-15・第1~15戦) |