ニコ・ロズベルグ
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F1での経歴 | |
国籍 | ドイツ |
車番 | 10 |
所属チーム | ウィリアムズ |
活動年数 | 2006 |
過去の所属チーム | - |
出走回数 | 18 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 4 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 1 |
F1デビュー戦 | 2006年バーレーンGP |
初勝利 | - |
2006年順位 | 17位 (4ポイント) |
(記録は2006年第18戦終了時) | |
ニコ・ロズベルグ(Nicolas Rosberg, 1985年6月27日 - )は、ドイツ出身の自動車レーサーであり、2006年にデビューしたF1ドライバー。1982年のF1チャンピオン、フィンランド人のケケ・ロズベルグを父に持つが、レースにおいては母親の母国であるドイツ国籍で参戦している。また、ドイツ生まれ・モナコ育ちであるためか、フィンランド語を話すことはできない。
[編集] 略歴
1985年、ドイツ、ヘッセン州のヴィースバーデンにて生まれる。後のニコ・ロズベルグのキャリアは常に家族、とりわけ父親のサポートに支えられたものとなるが、これは彼が生まれる以前から既定のことでもあった。
1996年、10歳の時にカートを始め、フランス、アメリカなど各国の選手権を転戦、2001年には世界カート選手権スーパーA級を制した。
2002年、16歳の時にシングルシーターに移行し、ドイツのフォーミュラ・BMWに参戦。その年のタイトルを手堅く獲得した。また、この年はウィリアムズで初のF1テストを行ってもいる。17歳でF1を操った人間はこの時点で史上最年少である。
翌2003年には、ヨーロッパF3のケケのチームに移り、2004年に離脱するまでの間、幾つかの優勝をし、まずまずの成果を挙げる。
2005年は、同年に国際F3000から改組しスタートしたGP2に参戦し、ヘイッキ・コヴァライネンとの争いを制して、同シリーズの初代チャンピオンに輝いた。同時に、11月には、父親の古巣でもある、F1のウィリアムズと翌年の契約を交わし、本人にとっても父親にとっても念願であったF1デビューにこぎつけた。
その2006年シーズン、デビュー戦となった開幕戦バーレーンGPではいきなり7位入賞(デビュー戦入賞は2005年サンマリノGPのヴィタントニオ・リウッツィ以来。20歳258日での入賞は史上3位の年少記録)を果たしたのみでなく、ファステストラップ(デビュー戦での獲得は、インディ500のみに出走のドライバーなどを除くと、実質1996年オーストラリアGPのジャック・ヴィルヌーヴ以来2人目。20歳258日での達成は、2003年カナダGPでのフェルナンド・アロンソの21歳321日を破る史上最年少記録)を獲得する活躍を見せた。つづくマレーシアGPでも予選3位を記録し、チームメイトのマーク・ウェバーと遜色のない速さを見せている。
F1中継時に塩原恒夫アナウンサーは「ケケの子ニコ」と言うフレーズを多用する。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
2006年シーズンのF1世界選手権を戦うチームと出走ドライバー | |||||||||||
M | RENAULT | M | McLAREN | B | FERRARI | B | TOYOTA | B | WILLIAMS | 使用タイヤ: M: ミシュラン B: ブリヂストン |
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1 | アロンソ | 3 | ライコネン | 5 | M.シューマッハ | 7 | R.シューマッハ | 9 | ウェバー | ||
2 | フィジケラ | 4 | デ・ラ・ロサ | 6 | マッサ | 8 | トゥルーリ | 10 | ロズベルグ | ||
M | HONDA | M | RED BULL | M | BMW SAUBER | B | SPYKER MF1 | M | TORO ROSSO | B | SUPER AGURI |
11 | バリチェロ | 14 | クルサード | 16 | ハイドフェルド | 18 | モンテイロ | 20 | リウッツィ | 22 | 佐藤 |
12 | バトン | 15 | ドーンボス | 17 | クビサ | 19 | アルバース | 21 | スピード | 23 | 山本 |
井出 (スーパーアグリ-23・第1~4戦) / モントーヤ (マクラーレン-4・第1~10戦) モンタニー (スーパーアグリ-23・第5~11戦) / ヴィルヌーヴ(BMW-17・第1~12戦) クリエン (レッドブル-15・第1~15戦) |