ハンス・ウルリッヒ・ルーデル
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ハンス・ウルリッヒ・ルーデル(Hans-Ulrich Rudel, 1916年7月2日-1982年12月18日)は、第二次世界大戦時のドイツ空軍のパイロット。恐らく歴史上で最も多くの戦車を撃破した撃墜王ならぬ戦車撃破王。なお、乗機がJu 87だけであると思われているがフォッケウルフFw190での地上支援や空戦もかなりの回数があり、間違いなく第二次世界大戦のドイツ空軍を代表するエース・パイロットの一人である。
[編集] 経歴
ルーデルはドイツ東部のシレジアで生まれた。1936年に士官候補生としてドイツ空軍に入隊。入隊当初は戦闘機乗りを志望するも学歴が原因で偵察機のパイロットとしての訓練を受けた。
第二次世界大戦には彼は少尉として偵察機部隊に所属しポーランド戦役に参加した。1939年10月11日に二級鉄十字章を受章。1940年5月に急降下爆撃の訓練を受け、訓練後はシュツットガルトの急降下爆撃隊に配属となる。フランス侵攻において中尉として彼は戦闘に参加せず、その後クレタ島侵攻に参加したが直接戦闘に参加しなかった。
ルーデルはバルバロッサ作戦において1941年6月23日に初の戦闘を経験し、1941年7月18日に1級鉄十字勲章を受章、急降下爆撃機Ju 87G-1型を駆り終戦まで東部戦線で戦い抜いた。何度も乗機を撃墜されて捕虜になりかけたり(当時は首に賞金が懸けられていた)、砲撃で片足を失ったが特注の義足を付けてパイロットとして前線に復帰したという逸話もある。
その戦績は凄まじく、スターリンをして「ソ連人民最大の敵」と言わしめた。又、全国防軍将兵の中で唯一「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を授与された。なお、最終階級は大佐であった。
戦後、彼はアルゼンチンの独裁者フアン・ペロンの親しい友人となったらしい。彼は回想録『 Trotzdem 』を著作している(著作の項参照)。内容は戦争を賛美しておらず、思想的な記述もほとんど無く、良くも悪くも当時の戦闘記録を纏めただけの本である。彼自身はナチ党員ではなく、ヒトラーが彼の戦死を恐れ、再三に地上勤務の要請をしたが、全て断っている。
彼は戦後20歳以上年下の女性と結婚し子どもをもうけた。彼の戦後の人生は実業家・スポーツ愛好家として知られている。
また、アメリカのフェアチャイルド社はA-10サンダーボルトII攻撃機を設計する際、対地攻撃の第一人者であるルーデルを顧問に迎えている。A-10の設計思想の一部はルーデルの助言によるものだと言われている。
[編集] 戦績
- 出撃回数2530回
- 戦車519台破壊
- 装甲車・トラック800台以上破壊
- 火砲(100mm口径以上)150門以上破壊
- 戦艦1隻撃沈
- 巡洋艦1隻撃沈
- 駆逐艦1隻撃沈
- 上陸用舟艇70隻以上撃沈
- 戦闘機2機撃墜
- 爆撃機5機撃墜
- その他航空機2機撃墜
- (被撃墜回数30回)
- (戦闘による負傷5回)
[編集] 著作
- 『急降下爆撃』、高木真太郎訳(英訳からの重訳)、朝日ソノラマ、1982年、
- 『急降下爆撃』、高木真太郎訳(英訳からの重訳)、学習研究社、2002年、ISBN 4059011541
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